本読み、音楽、アニメ、ゲームなど……じぶんのためのメモ的なものを、気まぐれに載せています。

2014年3月26日水曜日

「白熱講義!日本国憲法改正」「キャリア官僚の仕事力」「孤独な娘」

15:13 Posted by どぼん , , No comments

03月26日:小林節「白熱講義!日本国憲法改正」

 したがって、私たち国民は、国家(権力者)が国民のためにきちんとサービスを提供し、権力を笠に暴走していないか、常に国家を管理する必要がある。それができるのは唯一「主権者・国民」だけである。そして国民が国家を管理するための規範となるマニュアル(手引書)、それが「憲法」である (本書, p. 56)。
◆タイトルが示すとおり、憲法は国民が国家の権力行使に制約を与えるためのものだということを「講義」し、そのうえで現代に対応した憲法「改正」を行うことを主張している一冊です。その関連で、自民党の憲法改正草案に対しては、9条改正や天皇元首規定(勝手な造語)などに対しては”一定の”理解を示しつつも、憲法改正の条件(現憲法96条)の変更や、愛国心規定や家庭尊重規定といった、道徳的かつ国民に義務を課する記載を含む条項に対しては批判を加えています。

◆憲法の改正に賛成であれ反対であれ、憲法のはたらきについて考えたうえで、あらためて改正の是非を考えることができる一冊だと思います。


03月26日:中野雅至「キャリア官僚の仕事力」

◆キャリア官僚の仕事からみえてくるしたたかな仕事術を描き出している本です。ドラマで「官僚」といえば、その知識を利用して金儲けに保身にと悪事の限りを尽くしているエリートというのがよく描かれるイメージですが、実際には、国民や国会議員、業界団体、経営者団体、労働組合といった全方位の人びとを相手に、しかもそれらの調整を図りながらの激務。その激務をこなすためには、情報処理・生産能力だけではなくて、情報入手のために飛び回るフットワークの軽さや、処理した情報を人に分かりやすく説明する能力、そして利害調整を行うためにゴマをするような交渉能力(と度胸)など、じつにさまざまな能力が、高いレベルで求められるといいます。◆上司をも騙して話を双方の妥協点にもってゆくというような、したたかな仕事術! その仕事術には、多くの社会人にとって必要なノウハウが詰め込まれていそうです。◆彼らの仕事場は、一方では怒号が、もう一方では議論熱が絶えません。さらに他方では、そんななかで自分の作業に完全に集中している人もいる。実際の官僚仕事やその官僚制度にある問題点も指摘しながら、その実態を活き活きと描き出している、面白い一冊でした。

03月25日:ナサニエル・ウェスト「孤独な娘」

 《孤独な娘》は、数年前うっかりして小さな蛙を踏みつぶしたときのような感じに襲われた。はみだした内臓は憐れみの情をそそるものだったが、蛙の苦悶が自分の感覚になまなましく伝わってくると、憐れみは怒りに変った。彼は気が狂ったように蛙を踏みつけ、殺してしまった (本書, p. 50)。
◆新聞の読者の悩みを引き受ける「孤独な娘」。それは新聞の読者を伸ばすための企画にすぎず、実際には読者に何らかの救いを与えるわけでもなんでもない。それでも「孤独な娘」には、彼に助けを求める人びとからの投書が絶えません。それは、まるで彼が、救いを与える神であるかのように。◆ところが「孤独な娘」は、彼らの苦悩が自身のうちにあることに気づきます。それは、みずからがもつべき価値を失ってなお宗教にすがる都市生活者を覆い尽くす憂鬱。

 両親もまた夢を作るための仕掛けなのだ。[……] メアリのような人たちは、こういう物語に支えられなければ何もできないのだ。彼らはこういう話が好きなのだ。なぜなら、服装や仕事や映画以外のことをしゃべりたいから。何か詩的なことについて語りたいから (本書, p. 66)
◆実際にはなんの役にも立たないアドバイスを送る「孤独な娘」にすがる人びと。人びとを救う「孤独な娘」自身をも巻き込んで都会を覆い尽くす憂鬱、虚栄。価値を失い、神(=孤独な娘)にすがることしかできなくなってしまった人びと。そんな憂鬱感をどこか冗談めかせて滑稽に語らせているところに、すこしの気持ち悪さを覚えた一冊でした。


2014年3月25日火曜日

「知的生産の技術」「税金 常識のウソ」「コーヒー・ハウス」

6:00 Posted by どぼん , , , No comments

03月22日:梅棹忠夫「知的生産の技術」

 知的生産のための空間の機能を分化させるということは、つまり、知的生産の作業のなかに、いくつかのちがった系列のものが存在することを確認する、ということなのである。うっかりすると、事務的な処理に時間とエネルギーの大部分をとられても、自分では、けっこう何か仕事をした、という気になりやすい。事務がかたづいただけでは、創造的な知的生産は、なにひとつおこなわれていないのである (本書, p. 93)。
 ◆1969年、知的創造の方法という問題をいちはやく問題提起した一冊ではないでしょうか。「知的生産の技術」をざっくりひとことでいえば、情報の活用方法を自分なりに体系立てることです。ノートからカードにすることで携帯しやすくなり、ページ単位ではなく論理単位で自由に組み換えることで新たな発見が見えてくる。◆目にした知識をどのように処理し、保存するのか。そして、保存した知識をどのように引き出して活用するのか。著者はこのようにいいました。いずれ、知的生産をおこなうことが、”誰に対しても”求められる時代がくると。◆膨大な情報に囲まれた今、この本を読んで、(この本にある京大式カードなどをそのまま取り入れるだけではなく)自分なりの「知的生産の技術」を編み出してゆくと面白いのではないかと思います。◆なんとこの本、近所のブックオフで108円で転がっていました。あら?もう消費税8%価格?(関連して、1円玉の発行量がどうなるかも気になるところ)

03月18日:神野直彦「税金 常識のウソ」

 1990年代以降の日本の租税政策の特色は、高額所得者と法人所得に焦点を絞って減税を実施していく点にありました。しかも、減税による収入減を、一般消費税つまり消費税の増税によって補うとともに、それによって租税負担を、豊かな階層から貧しい階層へと、シフトすることを意図していた点に特色がありました (本書, p. 205)。
 社会的ビジョンと租税制度とのミスマッチが強い租税抵抗を生みだし、それが増税政策を封じてしまいます。そのため社会的ヴィジョンと租税制度とのミスマッチが、かえって拡大するという「負の連鎖」を形成してしまうのです (同上)。
◆ちょっぴり「釣り」の香りがするタイトルとは大違い、「政府が国民から租税を巻き上げるのはなぜ正当化されるのか?(租税の根拠)」といった素朴な疑問から、人税や物税といったおおまかな租税の話、所得税や消費税、相続税の性質や課税の仕組み、日本の租税政策、幅広い話題をあつかっていて、とても読みごたえがある一冊でした。◆「常識のウソ」としては、消費税が公平な課税を実現するということなどを挙げることができます。片方では小さな政府を目指して高所得者や法人を中心に租税負担を減らしながら、もう片方では大きな政府のように消費税を上げてゆく、そのちぐはぐさが租税への不信をもたらしていると著者はいいます。◆増税というと感情的な反発を引き起こしがちですが、それはまさしく、引用した「負の連鎖」というものなのかもしれませんね。

03月16日:小林章夫「コーヒー・ハウス」

 政治が語られる一方では、最近流行のファッションが話題になり、文学論が口角泡を飛ばして戦わされる一方、インチキ薬の効能をまことしやかに説明するも のもある。商売人同士が取引の話をしている隣のテーブルでは、泥棒が聞き耳を立て、金を奪う手筈を考えている。新聞・雑誌を読む者、手紙を書く者、友人と 談笑する者、ありとあらゆる層の人間が勝手なことをやっている。コーヒー・ハウスには時代の社会風俗がたっぷり盛り込まれているといえるのである (本書, p. 266)。
◆本書の舞台は17世紀後半のイギリス、喫茶店の前身となったコーヒー・ハウスは18世紀にかけて最盛期を迎えます。最盛期のコーヒー・ハウスは、政治、 文学、経済などの重要人物が集まって議論を交わす「情報の最前線」であり、したがってそこはジャーナリズムの拠点ともなりました。さらには、字が読めない人たちも喫茶店へ行って、新しい情報にみんなで関心をもったわけですね。

◆しかし19世紀に入ると、「情報の最前線」としてのコーヒー・ハウスはその役割を失ってゆきます。そこには、家庭での喫茶文化の普及(ティーパーティー、アフタヌーン・ティーですね)などといった理由から、情報の最前線としてのコーヒー・ハウスは変質してゆきます。

◆いわば、人びとはコーヒー・ハウスに出入りすることで情報にアクセスしていたということ、こうして考えると、現在とのつながりも見えてくるのではないかと思います。

2014年3月23日日曜日

打ち込み日記

11:31 Posted by どぼん , 8 comments
ここ最近、いくつか打ち込んでみました。

まずはショパンの遺作、「夜想曲 (Lento con gran espressione)」

このタイトルは楽譜の速度指示で「ゆったりと、表情豊かに」という意味ですが、例にもれずこの曲にもタイトルがないので、この指示が通称として定着しています。映画では「戦場のピアニスト」の冒頭で主人公のピアニストがスタジオで録音していたのがこの曲でした。また、最近のドラマでは「相棒」にもたびたび使われています。




もうひとつは拙作の夜想曲です。
もとはPianoteqというピアノ音源の”お試し版”(鍵盤のいくつかが鳴らない!)でもそれなりに鳴るようにと作った小品です。今回は、それを移調させたり、細かな手直しをしてみました(曲のメロディや音自体に手を入れるというのは面倒なので、あまりやらないんですよね^^;)。

2014年3月15日土曜日

「ネットのバカ」

6:15 Posted by どぼん , No comments
 ネットがあるから多様な意見を知ることになった、という主張は嘘である。特に、自らフォローしたい相手を選べるツイッターは、心地よい情報だけを入れることが可能になった。だからそうして、彼らは、マスコミの偏向報道の歴史や、在日韓国人にまつわる噂やらを信じ、確証バイアスを強めていく (本書(Amazon), p. 194f)。
◆ネットへの過剰な期待に対して現実を呼びかけ、そのネットという場所がどんな場所なのか。ネット中身に踏み込んだ一冊です。

◆インターネットが当たり前の存在となった今、一方では、「インターネットが新しい社会を可能にする」というようなことがいわれています。そうした声によれば、ネットで自由に発言できるということは不正を告発できると言うことだし、多様な人間が参加するということはより活発で多様性のある議論が可能になるということ。自由と集合知、さらに平等、多様性、双方向性、ぱっと考えてみてもこうした言葉の数々はインターネットを称賛する文脈でよく見かけます。

◆ところが、この著者は「バカがネットを使おうとバカはバカ。ネットはバカと暇人のものだ」と言い放ちます。ネットは自由に見えて不自由で、平等に見えて大きな格差があって、多様にみえて偏りが進んでいる。◆そこには、寄付や助け合いといった前向きな可能性もあるけれど、ネットが何かを可能にするのだという期待をしてはいけない(自由に見えて不自由というのは、不特定多数を相手にするので、読者層を想定して”ここまでなら言っても大丈夫だろう”というような書き方ができないということです)。

◆引用したのは、先に書いた「多様に見えて偏りが進んでいる」という部分について書いてあるところです。ここでいう確証バイアスは「思い込み」と言いかえてもよいと思います。正しいと思ったものをひたすら正しいと思い込んでゆく。さらにいえば、それが人格と結びついているために、議論の際に(相手の話ではなく)相手自身を非難する厳しい言葉が飛び交う・・・というようなことになっているような気がします。この点で、ある種の信仰に近いものがあるような気がしなくもありません・・・。

2014年3月11日火曜日

「縛り首の丘」

6:00 Posted by どぼん , No comments

 リスボンの人々は、ためらいもなく直ちに私の足元にひれ伏した。マルケス夫人は泣きながら私を「わが心の子」と呼ぶのだった。新聞は伝統的には神に属するはずの形容詞をいろいろと私の名前の前につけるのだった。かくして私は「全能」になったり「全知」になったりした。私の人間に対する軽蔑の念はあまりに大きく、人間を創った神さえ軽蔑したくなるほどだった (本書「大官を殺せ」(Amazon) , p. 110)。

「大官を殺せ」

◆王国内務省の官吏として、ごく平凡な生活を過ごしていた主人公テオドーロ。あるとき中国の古い書物を読んでいると、なにかがこのようにささやきかける。「呼び鈴を鳴らすのです。そうすれば、巨万の富をもつ中国の大官は死に、その遺産がすべておまえの手元に入るのだから」。主人公は、それが悪魔の誘惑だということを知りながら、自分が一生かかっても稼げないような巨万の富に目がくらみ、ついに呼び鈴を鳴らしてしまう……

◆つまり、理性では「いけない」と分かりきっているのに、主人公のように教養ある人物であっても欲に流されてしまうのが人間。そうして大富豪になった主人公ですが、大官の幻影に悩まされ、大官やその遺族へ償いをしようと思っても、それが叶わないどころか仇となって返ってきてしまうありさま。さらには周囲の人間の手のひら返しにもうんざり。富豪であることにほとほと嫌気がさして「大金から私を自由にしてくれ!」と叫びますが、それも叶わず。◆ついに人生を終えようとする主人公が心底思い至った教訓は「自分の力で稼いだパン以外にはなんの美味さもない」ということ、つまり、表題と真逆の「大官を殺すなかれ(p. 111)」という答えにたどり着くわけですね。当たり前といえば当たり前の教訓なのですが、主人公の右往左往っぷりの果てにこの言葉が出たと思うと、思わず「お疲れさま」といいたくなります。

◆周りの人びと(大衆)もひどいものです。主人公が巨万の富を手に入れると知れば、周りの人びとはこぞって彼を崇め、主人公が巨万の富にうんざりして前の生活にもどれば、周りの人びとは富豪時代の恨みもあるのでこぞって彼をけなす。このあたりの手のひら返しの様子はとても滑稽です。ぼくなんかは、こういう話を読むと「ははは、人間なんてそういうものさ」と黒い笑いに浸りたくなってしまいます。

「縛り首の丘」

◆主人公は敬虔な信仰心をもつ青年騎士ドン・ルイ。教会で人妻に一目ぼれし、日曜日には教会のまえで彼女がアーケードを通るのを待ちうけながら、熱い視線を向ける。ところが、その視線に気づいたのは嫉妬深い夫ドン・アロンソ。かれは妻を狙う主人公を心から憎み、ついには妻の偽手紙によって主人公をおびき出し、その「下劣な情炎」を利用して殺害するという恐ろしい謀略をたくらむ。主人公は彼女のもとへ一目散に駆ける。その途中、死体が吊るされた縛り首の丘で青年騎士を呼び止めるのは、ほかならぬ縛り首だった……

◆疑心暗鬼が誤解をつのらせるというのはこわいですね。主人公は人妻が視線に気づいてくれないので「薄情女」と嘲りながらすっかりあきらめてしまうのですが、それを嫉妬深い夫は「とんでもない計略をたくらんでいるに違いない!」と疑い、ついに青年騎士を殺害するための謀略を企ててしまいます。こういうのは、愛がもたらす奇妙な思考というかなんというか。

◆でもこの二人結構似ているなあと思います。主人公は彼女を一目見ようとして、彼女の家の周りをうろうろしたり待ち構えたりしていますし、夫は自分の邸宅から彼女の行動を逐一見張っているとか。彼女を愛するがために、彼女を短剣で脅して偽の手紙を書かせるというのも、はたからみたらなんともおかしいのですが、当の本人は真剣そのもの。

◆さらには、そこに聖母様の使いとして現れるのが縛り首の死体。縛り首の死体にとっては、聖母様への奉公、ある種の試験だったのかなと思いますが、かれは見事にその役割を果たしたのでした。情愛に走ることをいさめる教訓めいたお話かと思いきや、縛り首の死体という特異なキャラクターによって違った色が添えられたという感じで、面白いですね。

◆この本全体としては、人間というものを一歩引いたところから見ているような写実性と非現実性(呼び鈴で人が死ぬとか、縛り首が助けてくれるとか)が一緒に入り込んでいるというところが魅力的な一冊だと思いました。

2014年3月6日木曜日

「夜と霧 (新版)」

6:00 Posted by どぼん , 2 comments

  つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ ( 「夜と霧(新版)」(Amazon) , p. 111f)。

2014-03-11に書き直しました。

とても有名な本(らしいの)ですが。
この本のこの箇所を読んだとき、手が止まってしまいました。

 一面では、人間は外的な状況に呑み込まれてしまう存在です。この本でも、強制収容所のなかで自分にはもう未来がないと考え、絶望して人間を辞めてしまう人も少なからずいたといいます。決定を放棄した人間は、モノに成り果ててしまう。しかし、少数ながらも未来を捨てず、苦しみと向き合った人たちがいました。著者は、その数少ない事例こそが、数多くの堕落の事例を補って余りある人間の力なのだといいます。その考えが、引用した部分によく表れていると思います。

 生きるなかで絶えず生じる選択肢と向き合い、苦難のなかにあっても自分のありようを問い続ける。過去を反省することはあっても決して退行することはなく、未来を見据えながらいまを生きてゆく。なぜなら、人間の真価が問われるのは、苦難のあとではなく、苦難にある今そのときなのだから。

 「生きる」とは、何かの意味があって生きるのではなく、生きていることによって生じる問いかけに対して、行動によって答えを出してゆくことが「生きる」ことなのである。そのことを分かっている人は、生きることや苦しむことの意味は分からなくても目的は知っている。

 なんだか人生の先がモヤモヤしていて、出口がみえない。そのうち疲れ果てて、繰り返される日常に溺れてしまう。そんな閉塞感に苛まれた時期がぼくにはありました。そのとき、読んでいた本で紹介されていたのがこの本でした。人は苦しみとどう付き合えばよいのか、この本はただのハウトゥとは違う、力強い言葉を授けてくれる本だと思います。


 ・・・・・・ひとことで「未来を見つめることが大事だ」なんていうと「そんなのきれいごとだろ」なんて切り捨てたくなりますけど、生きることの厳しさ、そして力強さと向き合ってきた著者の言葉には力強いものがあります。変に理屈っぽい話は受け入れがたいし、変に具体的すぎる話は自分の日常生活とは別のものごととして考えて、「そういう場合もあるね」などと片付けてしまうからやっぱり受け入れがたい。けれど、この本はそのどちらでもなく、すんなり入ってきます。

 ただ、著者は「人間は自分では何も決定できない」というわけでもなければ「すべてが自分で決定できる」ともいっていません。というのも著者は、この世界に溢れるどうしようもない力、人が「偶然」と呼ぶそれの存在を認めているからです。収容所での体験すべてがそれを物語っています。それでも生きることの義務、責任を果たしてゆくことの大切さを伝えているのではないかと思います。