本読み、音楽、アニメ、ゲームなど……じぶんのためのメモ的なものを、気まぐれに載せています。

2015年11月11日水曜日

メモ - 大規模なRPG

20:42 Posted by どぼん 3 comments

screenshot-rmake.jp 2015-11-11 12-07-49
cdv30200さんの「大規模なRPG」をクリアしました。この記事では、このゲームについて進行で迷った部分のヒントと、ぼくの気になった部分をメモします。
プレイする楽しみが減らないよう、物語の核心に触れる部分については記述をあいまいにしてあります。


2015年10月25日日曜日

MuseScore - ピッツィカートとアルコの切り替え (ver. 2.0.2)

16:29 Posted by どぼん , , 4 comments

 ここでは、ピッツィカート(弦を指で弾く奏法)とアルコ(ピッツィカートなどに対して、従来通りの弓で弾く奏法)を切り替える方法をメモします。どちらも譜表テキストを挿入して「譜表テキストのプロパティ」でチャンネル変更を行なうだけです。詳しい説明はハンドブックにもあります。

  1. ピッツィカート(アルコ)を開始する音を選択し、譜表テキストを挿入(Ctrl+T)して指示 「pizz. (arco.)」を書く。
  2. 譜表テキストを右クリックし、「譜表テキストのプロパティ」を開く。「チャンネルの変更」タブから、「チャンネル」メニューから「ピチカート(アルコの場合は”標準”)」を選択。声部も選択してOKを押す(通常は1だけで問題ない)。

20151025

2015年9月24日木曜日

日本の最も美しい図書館

23:27 Posted by どぼん 2 comments

 個性あふれる41の図書館。そのどれもがデザインや機能という点で固有の美しさを持っています。未来的な建物や歴史な趣のある建物、あるいは図書館の在り方そのものを問い直すようなまったく新しい図書館。こんな図書館を無料で使ってよいのかと思うほどです(苦笑)

 以下、採録されている図書館を紹介するとともに、気になった図書館についてメモしておきます。

■関東甲信越エリア

■近畿エリア

■東海・北陸エリア

■東北エリア

■中国・九州エリア

2015年9月19日土曜日

「ピアノ・ノート」

0:22 Posted by どぼん , , No comments

チャールズ・ローゼン「ピアノ・ノート」

 世界的なピアニストが、ピアノという楽器と演奏という行為について自論を語る。いわば、ピアニストの奥義を垣間見ることのできるエッセイだと思います。ピアノを弾くとはどういうことなのか。ピアニストはあまりに弾かれすぎた定番のレパートリーにどう向かい合うのか。歴史的な「正しさ」についてどのように考えるべきなのか。音楽教育やコンクールといった権威にも踏み込む姿勢はひたすら音楽に対する誠実さを感じさせ、まったく気取りのない文体は、クラシック音楽になじみのない人にこそおすすめしたくなる面白さがあります。以下話題に即してメモ(個別記述的なもの)を記します。(内容に関心のある方は、本書をじかに読んだ方が間違いなく面白いです。言うまでもありませんが)

身体と心、演奏慣習(伝統的奏法)

 音楽を演奏するという行為は、身体的な動作と内面的(精神的、知的)な活動からなります。それでは、この身体と心は演奏という行為にどのように影響しているのでしょうか。この問いに対して筆者は、身体と心を区別する考え方を否定します。ここでいう身体と心を区別する考え方とは、「音楽の本来の姿は頭のなかにある想念であり、演奏という動作はそれを体現するものでしかない」という考え方のことです。この考え方に対して筆者は、身体の役割を強調します。「ピアノでは身体的な努力と表現が密接に関係し、それが作曲と演奏の両方に影響する (p. 20)」。ピアノの作品には、「弾く」ことによって生じる身体性を要求している作品がある(ショパンのマズルカ Op. 63-3、片手で弾くカノンなど)。

 ここで、身体(弾くという動作)と演奏慣習(伝統的奏法)の問題がでてきます。自分にとって耳慣れた演奏や「正しい」と教えられた解釈は、慣習として身体に刻み込まれ「思考や霊感の機械的な代用品」として機能します。つまり、心のように見せかけてまったく違うものだということです。そして驚くべきことに、この演奏慣習に基づく無批判な演奏が、コンサートにも見られると書いています。これは後述する音楽の歴史的な「正しさ」の話と密接に関わっています。

 思考や計画性をともなわない演奏は――これが現代のコンサートの偽らぬ現実だが――伝統的視点や演奏者自身の本能に批判的な演奏とくらべて一般に自発性に乏しく、習慣のとりこになりやすい。伝統に屈してしまう音楽家は、伝統を生かし続ける可能性を捨てたに等しい。 (p. 18)

 メモ:オーセンシティ(歴史的に正しい)運動。作曲家が聴いたであろう真正な音こそが絶対だと考えるあまり、伝統的な西洋音楽がもつ寛容さ(即興的な側面)を忘れ去ってしまった。

音を聴くこと、演奏時のジェスチャー

 筆者によれば、「ピアニストほど自分の出す音を知らない音楽家はいない」。なぜなら音にすべき情趣の多くが身体的努力や身振りとなって表れてしまうからです。レコーダーなどの機械に頼るのではなく、自らの感覚で音の響きを感じとることが大切だと述べています。それは、作品のなかに自己を失う、主観でありながら客観的な状態になるという極めて難しい要求です。

 このことは聴き手に対しても問題を投げかけます。音に情趣がなくてもジェスチャーによって視覚的に伝わることがあるからです。こうなると、音楽を聴くという行為にも疑いを向けなければなりません。ここで驚くべきことが書かれています。「人の耳に聴こえてくるのは、大半が期待している音である (p. 129)」。「有名なピアニストの凡庸な演奏も、無名なピアニストの素晴らしい演奏も、同党のよろこびを与える (p. 130)」。「プロの音楽家や玄人筋は、たとえひどい演奏でも聴衆には美しく聞こえ、喜びを与えることもあるのを忘れがちだ (p. 123)」。ぼく自身が抱いていた、演奏を品評するような聴き手に対する疑念をこれぞと指摘している一文です。

「正しさ」の圧力

 解釈の「正しさ」とはなにか、そして教育やコンクールにおける正しさという圧力とはなにかという疑問は重要なテーマです。本書のなかでも「身体と心」「音楽学校とコンクール」などさまざまな章で触れられています。

 たとえば「音楽学校とコンクール」の章では、学位試験やコンクールで求められる「正しい」解釈(楽界が認める解釈)が、音楽に対する自発的な批判を阻害していると述べています(コンクールに対する批判はこの本の全体を通して一貫しており、別の章では「だからコンクールの演奏はあれほど行儀がよくて、眠くなるほど退屈なのだ (p. 114)」とまで書いている)。この意見は当然、コンクールを支持している人と相容れるはずがありません。このことがよく表れているエピソードも記録しておきます。筆者が審査員を務めたときのお話です。

 あるとき音楽学校校長をしている審査員が怒りだした。自分の考えというよりはだれかの解釈のコピーとしか思えないつまらない演奏をするピアニストに、わたしが5点をつけたからである。この審査員はこんな低い点はありえないと思ったらしい。そこで私は答えた。「もしこれが学位のための試験なら、わたしは78点をつける。だが職業を賭けた場では、こういう演奏はコンサートホールから追放されるべきだとわたしは考える。これは偽者コピー商品を売る行為に等しい」。 (pp. 103-104)

 演奏者として、筆者は「自発性の乏しい」演奏を厳しく非難します。そしてピアノ教師は「正しさ」を押し付けたい欲求をこらえて、生徒の解釈を引き出すように教える必要があるといいます。そうしなければ(技術とは別の)芸術的な成長を妨げてしまうのです。「コンサート」の章では、教育や楽界という権威に加えて商業からのプレッシャーが加わるだけです。

 そして、「正しさ」がどこから来るのかという問いにもっとも関連があるのが、最後の「演奏スタイルと音楽様式」の章だと思います。まず伝統的な、慣習的に用いられてきた奏法を紹介したうえで批判を加え、そうした奏法を安易に演奏に適用してしまうことで「聴き手に自分が深い感動と感受性をもって弾いていると思い込ませるための(あらゆるところにかまわずバターをぬりたくるような)安っぽい手段に堕してしまうことがある (p. 178)」と忠告しています。

まとめ(感想)

 書けば書くほどこの本のお堅い部分に触れてしまって、軽やかでありながらも誠実な筆致(そして翻訳)がもたらす面白さを損ねてしまう気がしてきたのでこのあたりでとどめておきます。音楽を弾くことと聴くことについて書かれているこの本は、シンプルな問いかけから始まりながらも音楽のとても深い部分を議論していると思います。ぼく自身、クラシック音楽に対するお堅いイメージが一気に変わった本です。

2015年9月17日木曜日

移転(というよりはただのアドレス変更)

23:07 Posted by どぼん No comments
ブログのタイトルとアドレスを変えました。

Minionette(ミニョネット)は小さい、繊細、魅力的なといった意味の言葉らしいですが、ぼくのハンドルネーム(どぼん)と同様に語感だけで選びました。

以前のブログのタイトルは語感があまりよくなかったので、4年目に突入するのを節目にして変更したという次第です。

内容はこれまでとさほど変わらないと思いますが、引き続きよろしくお願い致します。


アドレス変更にともなう旧ブログからの転送について

いざアドレスを変えてみると、旧ブログはエラーページ(ページが見つからない)となってしまうことに気がつきました。「新しいブログへ自動で転送する」なんていう気の利いた機能はないようです。

そこでグーグルのヘルプを見てみると、旧ブログと同じアドレスになるように新しいブログをつくって対処するということでした。


参考「新しいブログのアドレスを元のブログに投稿する - Blogger ヘルプ」
https://support.google.com/blogger/answer/42211?hl=ja

2015年9月11日金曜日

Musescore - オッシアの挿入

23:08 Posted by どぼん , , , No comments

見かけだけでもオッシアらしくしたかったので、無理やりやってみました。

「オッシアの挿入――イメージキャプチャを使用する方法」(Ver.2.0.2)

 オッシアが一か所程度であれば、この方法が使えるかもしれません。

  1. 別の小節を用意し、オッシアとなる譜面を入力する
  2. イメージキャプチャを起動し、1で入力した譜面を範囲選択する(選択状態のまま)
  3. 2で指定した範囲をShift+Ctrlを押しながら、オッシアを入力したい元の譜面にドラッグ・アンド・ドロップする(下画像は拙作から恥ずかしい譜例)20150911a

「オッシアの挿入――オッシア用の譜表を用意する方法」(Ver.2.0.2)

 オッシアが随所に現れる場合や、数小節にまたがる場合に使えるかもしれません。

  1. オッシア以外の譜面を完成させる…………オッシアを一度に入力するために譜面を完成させておく(1)
  2. オッシア用のパートを用意する…………[編集]>[楽器](ショートカットキー:I)を開き、[譜表の追加]から譜表を追加
  3. オッシアをすべて入力する…………新たにつくった譜表にオッシアとなる譜面をすべて入力する
  4. 小譜表にし、段の縦線を非表示にする…………オッシアパートの適当な小節を選択して右クリック。[譜表のプロパティ]を開く。[小譜表]と[段の縦線を隠す]にチェックを入れる
  5. 空の段を非表示にする…………上部のツールバーから[スタイル(S)]>[一般]を選択。[スコア]の[空の譜表を隠す]にチェックを入れる。反対に[最初の段では空の譜表を非表示にしない]のチェックは外す(2)
  6. 小節線をつなげる…………上部のツールバーから[表示(V)]>[インスペクタ]](ショートカットキー:F8)を開き、Ctrlキーを押しながらオッシアパートの各小節線をまとめて選択する。[インスペクタ]の[譜表数]の数値を変更する(この操作で小節線が貫通します(3)
  7. 不要な小節を削除する…………不要な小節を非表示にしたい場合は、その小節を右クリックし、[小節のプロパティ]から[表示]のチェックマークを外す(一小節ずつ行うことになります)(下画像はIMSLPにあるショパンの作品59-3の自筆譜から入力してみたもの)20150911b

(1) この方法では段(=列)が空の譜表を非表示にしてしまうため、新たな小節を作りながらオッシアもつくるというのはかなり面倒になります。
(2) この操作によって段ごと空の譜表は完全に非表示になります。もし、段(=列)ごと空の譜表がほかにあって削除したくないという場合は、その譜表を選択して[譜表のプロパティ]から[非表示にしない]にチェックを入れます。
(3) 小節線を直接下部へドラッグアンドドロップする方法もありますが、まとめて指定したい場合はこちらのほうが便利です。また、インスペクタの[スタイル]を変更することで、小節線を点線や破線にすることもできます。

2015年9月3日木曜日

「最暗黒の東京」

23:05 Posted by どぼん , No comments

08/31 : 松原岩五郎「最暗黒の東京」

 筆者は最下層の人びとに混ざって一年以上生活を送り、その様子を描いています。最暗黒の世界に暮らす人びとは何を考え、どのように生きているのか。暗黒界に暮らす人びとの劣悪な生活環境、彼らの創意工夫、生活を懸けて客を奪い合う車夫、ひいてはそうした貧民たちをとりまく社会の姿が見えてきます。片方では富んだ人間が居り、片方では飢えに苦しむ人がいる。社会とはいったい何なのか。こうした問題意識はいまでも多くの人が共感できるものだと思います。また、車夫の食事として深川飯などが紹介されているのも興味深いです。(あまり暗黒暗黒いうのもよろしくないのでしょうが、語感がよいのでそのままにしました。以下、暗黒メモしてみます)

暗黒界の風景

 冒頭の木賃宿(粗末な宿)の話から、描写に驚かされます。宿の部屋は20畳ほどの大きな座敷だけで、そこに5,6人の客が集まっています。宿に入った筆者の隣では、「煮しめたる如き着物」を着た年老いた飴売りの男が、悪臭を放ちながら着物に手を突っ込んで首や背中を掻いています。さらに夜になると労働者たちが帰ってきて、穴の開いた蚊帳のなかで10人以上が押し合うようにして眠る。蚊帳に穴が開いているから虫も入り放題、しらみなどの小さな虫も湧く。朝になってうがいをしようとすれば、ボロボロのたらいとぬるくなった濁り水しかない。
 飲食店もすごいもので、軒は朽ち柱は歪み、換気するための窓もないので厨房から上がる煤煙も湿気もそのままになっている。テーブルもほこりまみれで、壁もぼろぼろ。厨房は厨房で、片隅に置かれた野菜や魚のくずが悪臭を放ち店内に漂っている。下水は詰まり、台所にはすき間から雨水が入ってくる。従業員も汚らしい格好をしている(「味噌桶より這い出したるが如き給仕女」、ぞっとします!)。

暗黒界で暮らす人びと

 貧民の住居に関する話は、読んでいて筆者の思い入れを感じた部分です。まず、訪れた貧民の住居をこのように書いています。
 土竈〔へっつい〕はあたかも癩病患者の頭〔かしら〕の如くに頽〔くず〕れ、釜の縁は古瓦の如くに欠け、膳には框〔ふち〕なく椀は悉く剝〔は〕げたるもの、擂鉢の欠たるもなお火鉢として使われ、土瓶のヒビキたるもなお膏貼〔こうやく〕して間に合わさる。かつ、その日常什器として使用さるる傘はいかなるものなるか、これその骸〔ほね〕に各種の巾〔きれ〕をハギ集めて僅かに開閉さるるものなり。その履物は如何、これ実に木の片〔きれ〕に縄、綴切〔つぎきれ〕、竹の皮等を綯〔よ〕りて僅かに足を繋ぐものなり。しかしてまた、夜具臥床〔ねどこ〕の類は如何、これまた実に彼らが生活の欠陥を表す好材料にして、神秘なる睡眠を取るべき彼〔か〕の布団は風呂敷、あるいは手拭〔てぬぐい〕の古物、または蝙蝠を剝〔は〕ぎたる傘の幌〔きれ〕などを覆うて才〔わず〕かに絮〔わた〕の散乱するを防ぐの丹精物なり。 (p. 26)
 ぼろぼろのかまどを直し、お椀などもぼろぼろのまま使っている。物が無いなかで、傘や履物や布団といった必需品を代用している。そんな生活を「狂言染みた生活だ」と嘲笑する人もいるだろうとしつつ、筆者はさらにこう続けます。
 知らずや彼らの生活はスベテ「欠乏」といえる文字をもって代表され居るものなるを。彼ら既に万事欠乏の裡〔うち〕に生活す、いずくんぞ、その欠乏を満たすための経営なからんや。木片に縄を穿ちて履物となす、これ実に彼の欠乏を充たすの大経営にあらずや。土鍋のヒビカキたるに膏紙〔こうやく〕して物を煮る、これ実に彼の欠乏を満たすための惨憺なる心計にあらずや。世にミカエルアンジロまたは甚五郎左匠等が惨憺の意匠に製作〔でき〕たる彫刻を見て感ぜざるものは美術を知らざるものとなす。しかれども、貧者の事欠〔ことかけ〕道具を見てその意匠を思わず、単に不器用なる狂言道具としてこれを冷笑するは甚だ残忍なるものといわざるを得ず。 (p. 27)
 彼らをあざ笑う人間は、貧民が欠乏のなかで生活しているということを知らない。貧民にとってまず重要なのは「ものを得る」ことではなく「欠乏を防ぐ」ことだということを知らない。世の人は、ミケランジェロや甚五郎が意匠を凝らして作ったものをみて何も感じない人間を「美術を知らない人間だ」というが、貧民の彼らが悩みぬき意匠を凝らしてつくったものを「不器用な狂言道具」だと嘲笑うのは残忍極まるとしか言いようがない――だからこそ、筆者は貧民の住居を見て「これまで見たことのない巧緻なる美術品を見た」と語っているわけですね。(というのは、僕が情熱的に読みすぎているのかもしれませんが)

暗黒商売

 貧窟には残飯屋という商売があるといいます。筆者は残飯という言葉こそが貧民を形容するような言葉だといっています。残飯屋は、大学や兵営から買い取ったたくあんの切れ端、パンの屑、魚のあら、焦げ飯などを売り、貧民は桶やどんぶりを残飯屋に持って行って残飯を買う。呼び方も独自のものがあって、漬け物の切れ端は「株切(かぶきり)」、パンの切れ端は「土竈(へっつい)」、釜底のあざれた飯を洗い流したものは「アライ」、焦げ飯は「虎の皮」といった具合です。調理するとなれば薪なども買わねばなりませんから、調理された残飯は彼らの生活を支える重要な食品です。「我れ先にと笊、岡持を差し出(いだ)し、二銭ください、三銭おくれ、これに一貫目 (p. 38)」といった混雑も、当然のことなのですね。
 筆者はさらに、残飯を受け取って残飯屋へ運ぶという力仕事に従事するのですが、ここでも驚くべき話があります。残飯のない「飢饉」が続くことは、そのまま貧民の生命に関わってきます。そこで筆者は賄い方に頼み込み、「豕(ぶた)の食うべき餡殻と畠を肥すべく適当なる馬齢薯(じゃがたらいも)の屑」を受け取ります。腐敗して酸味を帯びた芋の餡に、洗い流した釜底の飯、絞った味噌汁のかす。「飢饉」に耐えかねた貧民たちは、筆者が残飯を持ち帰ってくるのを心待ちにしている。筆者はこれを売り物にしてよいかと悩んだのではないかと思いますが、事実それは貧民たちの食事となりました。筆者はこの体験についてこのように書いています。
 ああ、いかにこれが話説すべく奇態の事実でありしよ。予は予が心において残飯を売る事のそれが慥(たし)かに人命救助の一つであるべく、予をして小さき慈善家と思わせし 。しかるに、これが時としては腐れたる飯、饐(あざ)れたる味噌、即ち豕の食物および畠の食物をもって銭を取るべく不応為を犯すの余儀なき場合に陥入らしめたり (p. 44)
 ほかにも、いろいろな職業が登場します。とくに「融通」の項目、損料布団を質屋に入れ、そこから罪過を重ねて膨大な借金を抱えてしまった人の話などは印象的です。

暗黒界に巣くう社会問題

 ここまでかいつまんで書いてきたのは暗黒界(スラム街、貧民窟)の話ですが、筆者はその背後にある社会や経済への疑問を呈しています。たとえば、(筆者にいわせれば)残飯はもともと価値のないもの、時には海へ捨てることさえあるものなのに、利益を出すために商人と賄い方が手を組むことによって、貧民がより高値で残飯を買うことになる。商人が介入することで、価値のなかったものに値段がついてしまう。
 既に商人なるもの、その間に入って有無を通ずるに至れば、あたら天物は世に暴殄されざるも、この貧民は常に飢えざるを得ず。ああ恐るべき哉経済の原理、翅なくして飛び、足なくして探り、ついにこの暗黒界にむぐり込み、この残飯たる乞食めしの間を周旋するに到らんとは。 (p. 49)
 貧民街でもっとも多くみかける車夫(車夫は貧民の職業とされていたのでしょうか)についても、車夫たちの様子を生き生きと描き出す一方で、このような問題を投げかけています。
 現今府下に営業人力車の数は六万台にして、その内二万は順番の休息者として控え、余(あと)の四万台は悉皆外出して運動するとの実算なれば、車夫一人の日計二十五銭に内算しても、彼らの労働者が日に一万円の賃銀を得ざる事には尋常に生活する能わざるなり。 (p. 125)
 つまり……4万台が実際に仕事をし営業しているなら、車夫たち全体で1万円という賃金を受け取っていなければ彼らは生活できないであろう。東京という大都会は1万円という賃金を車夫たちに支払うことが出来るのか……という問いです。やせ細りぼろぼろになった老人(60歳ぐらいだと思いますが)を「安いから」といって利用するのは「壮年血気の健脚者」。警察が取り締まれば老人は営業できなくなり生活ができないから、そうした取り締まりをかいくぐりながらひそかに営業を続ける。「世間の事態逆倒(さかさま)なるが如し (p. 124)」とは、この本を貫く大きなテーマではないでしょうか。
 「では車夫を減らせばよいではないか」と考えたくなる一方で、車夫が失業者を吸収していると考えることもできるかもしれません。顧客を奪い合い喧嘩をするような車夫の背後にこういう問題があると考えると、この本で書かれていることは(紹介文に反して)ユーモラスとは感じられない重みがあるように思います(もちろん、「文久的飴売」や「老婆的慣用語」など、面白い書き方をしているところもあるのですが)。

2015年8月15日土曜日

打ち込み日記 - ショパン 「練習曲 ハ長調」 作品10-7

ショパンの「練習曲 ハ長調」(作品10-7)を打ち込んでみました。『12の練習曲』(作品10)の第7番です。
短いながらも延々と続く右手の壮絶な連打は、一見しただけで練習曲に相応しい難易度をそなえていると感じさせます。(実際の技術的なレベルは分かりませんが^^;)

細かく分けると、このようなつくりになっていると思います。違うにせよ多層的な構造になっていることは間違いなく、繰り返しがあるたびにそれぞれの声部のバランスを変えたり、アクセントを変えることによってまったく違った表現ができそうです。


打ち込みにあたり、ペダルは出来る限り減らしました。delicato(0:25-) の部分で思い切りペダルを使った方が効果的だと思いますし、音をぼかさないほうがよいかなと思っています。

打ち込み日記 - ショパン 「夜想曲 ロ長調」 作品62-1


ショパンの「夜想曲 ロ長調(作品62-1)」を打ち込んでみました。
旋律の美しさも魅力的なのですが、なによりアンサンブルのような印象を受ける作品です。 
(2:20-の部分。お気に入りのところ)

全体的に、左手の声部も強調してみたのがちょっとした試みです。
とくに主題がトリルで奏される部分は、トリルは弱くしても十分な響きが得られるので、左手の旋律を浮き立たせるつもりで打ち込んでみました。


2015年8月7日金曜日

ゲーム記「奇妙な食堂からの脱出2」

21:46 Posted by どぼん , No comments
HOTTATEGOYA GAMESさんの「奇妙な食堂からの脱出2」を脱出しました。

仕掛け自体は少ないので手軽に挑めますし、どれも発想できればすぐに分かる面白い仕掛けでした。スッキリしました。



http://dghg.bake-neko.net/strange_dining_room_2_jp.html

メモ

(プレイ中に記録したメモです)


8655858

685

b↓ b↑ b↑
r↑ g↓ g↑

11
ELEVEN

232124
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2015年8月3日月曜日

2015年7月31日金曜日

ゲーム記「リゼットの処方箋」

14:38 Posted by どぼん , No comments
LizArtsさんの「リゼットの処方箋」をクリアしました。

”眠り病”の専門医の少女リゼットが、旅の途中でみつけた”眠り病”の少年アシルを助けるべく、アシルの精神世界(記憶)のなかを進んでゆく物語です。オープニングのアニメーションが素敵です。

この物語のそもそもの発端は、法の番人ともいえる裁判官のある判決にありました。彼はそれまで悪に屈することのない正義として、法をかたくなに守り続けてきた。しかし世間や家族は、血も涙もない彼の判決に対して異議を突きつけた。正しいはずの自分を正しいと認める人間が(彼の見る)世界中のどこにもいないことに、彼は耐えきれなかったのかもしれません。

法と正義、少年の葛藤などなど、深い問題もストーリーに盛り込まれていて、とても楽しめました。

http://www.resette.net/

メモ

(プレイ中に記録したメモです)

2つの本の模型と1つの時計板を組み合わせ、
さらに時計板の針を特定の時間に設定する
→金庫が解錠

時計板の時刻は各日の開廷時刻

絵画
大いなる油断は、 赤城の門へと青き死神を呼び寄せる
迫り来る赤き死神の前に、 青き騎士団の大盾使いが現れる

142 182 171 〔※不要でした〕

法廷番号
004232

2015年7月22日水曜日

「仰臥漫録」

23:11 Posted by どぼん , No comments

07/22 : 正岡子規「仰臥漫録」

柩の前にて通夜すること無用に候
通夜するとも代わりあいていたすべく候
柩の前にて空涙は無用に候
談笑平生の如くあるべく候

(p. 119) 
 結核をわずらった正岡子規が、その病床でつづったごく私的な手記です。最初は岩波文庫版をみかけたのですが、イラストがカラーで掲載されているので角川ソフィア文庫のほうを読みました。この手記はほんらいは公開を意図していたものではなく、生前にこの手記を書いていることを知った高浜虚子が出版を提案した際も、ごく私的なものだとして拒否したそうです。
 基本的な内容は、その日の天気、食べたもの、便通、包帯の取り換え、来客、そして日々のなかでよんだ俳句など、ほとんどごく普通の手記のようです。それに加えて、思い出の追憶、家族への不満や心配、病気の状態を細かく描いている日もあります。
 アマゾン(岩波文庫版)のレビューをみてみると、病床にあってなおひたすら力強く生きようとした子規像に感銘を受けた方が多いようです。全身はあちこちが悲鳴を上げ、口からは膿が出ており、腹痛に悩まされる。そんななかでふつうは食べようと思わないはずですが、子規は尋常ではない量を食べ続けます。例えばある日の日記を抜粋すると、このような具合です。
九月十日 薄曇 午晴
  便通間に合わず 繃帯取換

朝飯 ぬく飯二椀 佃煮 紅茶一杯 菓子パン一つ
    便通
午飯 粥いも入三碗 松魚〔かつお〕のさしみ
    みそ汁葱茄子 つくだ煮 梨二つ 林檎一つ
間食 焼栗八、九個 ゆで栗三、四個 煎餅四、五枚
    菓子パン六、七個
夕飯 いも粥三碗 おこぜ豆腐の湯あげ
    おこぜ鱠 キャベツひたし物 梨二切 林檎一つ

(pp. 31-32)
 苦痛のあまり夜中でも昼でも泣き叫んだという記述は何か所もあります。腹に穴があいたとも書いています。病床に「仰臥」していた子規が、それでも力強く生きようとするさまは、たしかに胸を打つものがあります。
 しかし他方で、この本の魅力はそれだけではないと思うのです。病床にあってなお楽しみを忘れない、ある意味で豪快な人間性が感じられます。そしてそれこそが、この異様ともいえる食に結びついているような気がします。生きるために食べていた、そしてその生への執念に感動する、という読み方には、違和感を覚えるのです(再読予定)。
 そこで、ぼくがお気に入りの、お楽しみを忘れないような記述を記録しておきます。
 男女の来客ありし故この際に例の便通を催しては不都合いうべからざるものあるを以て余は終始安き心もなかりしが終にこらえおおせたり 夜九時過衆客皆散じて後ただちに便通あり 山の如し (p. 125)
 じつは病状は「便通」を我慢することさえ非常に難しいほど悪化していたのかもしれませんが、それをわざわざこんなふうに書く。こうしたところにもまた、この本の、この著者の魅力を感じます。

2015年7月20日月曜日

2015年7月2日木曜日

「ピエール・リヴィエール」

22:09 Posted by どぼん , , 2 comments

07/02 : ミシェル・フーコー編著「ピエール・リヴィエール――殺人・狂気・エクリチュール」

 この本の題材となる事件は1835年6月3日にさかのぼります。フランスのオーネーという田舎町で、ピエール・リヴィエールはナタを使って母・妹・弟を次々と殺害しました。近隣の人びとにも目撃されていましたが逃走し、森や海岸、ときには人のいる街まで歩きまわり、7月2日に捕まっています。11月12日に尊属殺人罪で死刑を言い渡されますが、翌1836年2月10日付で国王の恩赦により終身刑への減刑が認められます。3月7日にボーリュー重罪刑務所へ入所、1840年10月20日に所内で自殺を図り死亡しました。

 そして100年以上の時を経た1973年、フーコーとその門下生たちは、この知性ある狂気の物語とリヴィエールに関する資料を発見します。そして自伝を含めたそれらの資料を紹介するとともに、この事件を取り巻く法・医学・政治(王の恩赦)・社会(マス・コミ、家族システム)といった権力と彼の関係に注目するのです。

自伝

 まずはなんといってもその自伝が魅力的です。1813年の両親の結婚から始まり、父が母から受けた酷い仕打ちについてこれでもかと書きたてます。そして、それこそが事件の引き金になったのでした。(特に印象的だったのは、「夫が払うから」といってツケ払いで好き放題に買い物をしたり、子どもが死に際しているというときに督促状(自分の借金を父が支払うように求める書類)を突きつけて自分の主張をするという、恐ろしいほどの守銭奴ぶりです。自分の「権利」を死んでも手放さない!)
 私は母、妹、そして弟を大切にするという人の道をすっかり忘れてしまいました。私には父が狂犬か野蛮人の手にかかったようにみえました。これに対抗して私は武器をとらねばならなかったのです。 (p. 173)
 そして、自身が犯行に及んでから逃走し捕まる経緯を書きます。彼は犯行の直後に自分がしたことを認識しています。
ああ、なんてことだ。私は怪物だ、不幸な犠牲者たちよ。本当に私があんなことをやったのだろうか、いや、あれは夢だ、いやしかし、あれはまぎれもない事実だ、地獄よ、私の足もとで口を開け、大地よ、私を飲み込め、と。私は泣きじゃくり、地面を転げまわり、その場に突っ伏しました。 (p. 183)

分析

 後半の論考では、この自伝を含めた事件に関する資料をひもときながら、フーコーをはじめとする7人が異なる観点から考察しています。とくに「死刑を判決しながら減刑を王に嘆願したのはなぜか」という点(「情状酌量」)や、「なぜ情状酌量が適用されなかったのか」という点(「王殺し―親殺し」)は問題意識を共有しやすいところです。ほとんど同じ資料をもとにしながら司法と医学によって異なる言説が構築されてゆくことを明らかにした「ピエール・リヴィエール対比研究」も面白いと思います。

2015年6月14日日曜日

「音楽用語のイタリア語」

14:39 Posted by どぼん , , 2 comments

06/10 : 森田 学「音楽用語のイタリア語」

音楽用語では、表面的な意味だけでは違いがよくわからない単語がたくさんあります。たとえば、accelerandoとstringendo(徐々に速く)、ritardandoとrallentandoとritenuto(徐々に遅く)、rinforzandoとsforzando(その音を強く)などといった言葉は、クラシック音楽では頻出するのにインターネットで調べてもなかなか出てきません。accelerandoとstringendoを「徐々に速く」と理解していてもなにか困るということはありませんが、これらをどう使い分けているのかというのは気になるところです。そこで、これらの単語をイタリア語としてとらえてみる必要があります。たとえば日常的に用いられるニュアンスを知るためには「これで納得!よくわかる音楽用語のはなし (Amazon)」などがありますが、その単語の由来や文法的な構成といった点から知ることができるのがこの本です。以下にいくつかメモしておきます。

徐々に速く

accelerando......ラテン語のceler「速い」に由来し、付加を表す接頭辞aが結合したもの。
stringendo......stringere「締め付ける、縮める、まとめる、切迫する」に由来する。

徐々に遅く

rallentando......動詞rallentare「(他)遅くする」「(自)速度を緩める」のジェルンディオrallentandoが名詞化したもの。 例:Rallenta! Non vedi il semaforo rosso? (スピード落として! 赤信号が見えないの?)
ritardando......他動詞ritardare「遅らせる、(速度を)遅くする」のジェルンディオが名詞化したもの。例:Antonella ha ritardato di nuovo alla lezione. (アントネッラはまたレッスンに遅れた)
ritenuto......他動詞ritenere「考える、見なす、引き止める、控除する」の過去分詞で「慎重な、控除された」という意味。音楽用語では、「慎重な、抑えられた」(から転じて?)「急に速度を緩めた」の意味。

その音を特に強く

rinforzando......他動詞rinforzare「強固にする、元気にさせる」のジェルンディオが名詞化したもの。強意のri-と-in-「内に」、-forza-「力」からなる単語。rafforzandoと同じ意味で用いられる。
sforzando......他動詞forzare「無理に力をかける」に、継続的な意味を表す接頭辞sがついたもの。他動詞sforzare「フル活動させる、強制する、侵略する」のジェルンディオが名詞化したもの。

とても遅いテンポで

largo......意味は「幅のある、広い、ゆったりとした」。ラテン語のlargus「気前のよい、豊富な」に由来する。
lento......意味は「遅い、のろい、緩んだ」。ラテン語のlentus「柔軟な」に由来する。相対的な速度としてpiù lento「より遅く」などと用いられることもある。

veloceとvivace

veloce......ラテン語のvelox (velocis)「速い、俊敏な」に由来する。
vivace......ラテン語のvivere「生きる」から派生したvivax (vivacis)「長寿の、元気な」に由来。
vivo......ラテン語のvivere「生きる」から派生したvivus「生きている、活発な」に由来。

marciaとmarziale

marcia......古高ドイツ語markôn「足跡を残す」、古フランス語のmarchier「踏みつける」から派生したイタリア語の自動詞marciare「行進する」に由来。
marziale......古代ローマの軍神Mars (Martis)「マルス神」から派生した形容詞martialisが語源。
どちらも行進という意味を含んでいますが、由来は違うようです。

*) もうちょっと見やすくしたい(^^;)

2015年6月11日木曜日

打ち込み日記 - ショパン 「4つのマズルカ」第3番 ホ長調 作品6-3

ショパンの「4つのマズルカ (Op. 6)」から第3番ホ長調を打ち込みました。

 マズルカはポーランドの舞曲の一種ですが、この曲はとくに舞曲的な印象を受けます。
冒頭部分のリズムに載せて「踊りが始まるぞ」という期待感、そして付点のついた力強い踊りがこの曲のメインの部分です。そこからちょっとした憂いをみせたかと思えば踊りはたちまち加速し、明るくいそがしい踊りへと変貌します。そして力強い踊りが帰ってきて幕を下ろす。2分足らずの作品なのですが、さまざまな展開が盛り込まれています。

 打ち込むうえでいちばん難しかったのはなんといってもマズルカのリズムを自分なりにつかむことでした。ほかの演奏も参照しなかったので、奇妙なものになっているかもしれません。
 低音を打鍵して離してからペダルを一瞬だけ離すと、音が微妙に残ります。この効果が面白いと思って何度か使ってみました。重みがほしいけれど響かせたくないという時に、とても効果的な方法だと感じます。(いつものように、素人考えでは、と断らなければいけませんが)

ただ、例によってちょっと音量が小さいようです(^^;)

2015年6月10日水曜日

「わが百味真髄」

21:33 Posted by どぼん , , , No comments

06/09 : 檀一雄「わが百味真髄」

 長ずるに及んで、私の放浪癖は、私の、自分で喰べるものは自分でつくる流儀の生活をいっそう助長したし、また反対に、私の、自分で喰べるものは自分でつくる流儀の生活が、私の放浪癖を尚更に助長した。 (pp. 10-11)
 春夏秋冬に応じた料理とレシピを紹介しながら、その料理をめぐって旅先での思い出などを述懐しているエッセイ集です。

 旅と料理、そしてそれをつうじた人との出会い、これがこの本のテーマではないでしょうか。世界を旅し、日本を旅し、そのなかで知った料理を自己流に作り変えて家族や友人に振る舞う。そして、その失敗談さえも笑い飛ばすいさぎよさがあります。

 たとえば、家族にふるまったきのこ料理で家族もろとも腹痛に倒れても「あんなに爽快で、気持ちのいい、吐瀉と下痢をやったことはない」「まったく台風一過、全身が洗い流されるような感じであった (p. 118)」と断言してしまう。当然、料理を振る舞われる家族や友人からしてみれば、楽しみと同時に不安がつきまとったに違いありませんが、そうした周囲の反応についても、詮索せずに「どうだって、よろしい (p. 9)」と切り捨てる。いさぎよいというか、さっぱりしています。

 ところがご子息の太郎さんによるあとがきは、豪快で明るい人物像とは別の一面を指摘しています。旅によってつねに変化のなかに身を置くいっぽうで、料理を振る舞うことによって人と飲食を共にすることの裏には、寂しさのようなものがあったのではないか。料理を振る舞うことによって人が集まってきたのではなく、人を集めるために料理を振る舞い酒を飲むという祭りを開いたのではないか……周囲から豪快といわれた父親の異なる一面をほのめかしていて、読んでいて感じるものがあります。



もうひとつ、まえがきのお気に入りの部分を取り上げたいと思います。
料理はインスタントのウドンかラーメンかをその子供に啜り込ませ、母の会か何かに出かけていって、ペチャクチャペチャクチャ、その子のシツケや、知能指数のありようなど喋りまわっている女達は、亡国の子孫をつくっているだけのものである。 (p. 11)
これだけだとすこし重たい感じがしますが、続けてこのように書いています。
料理はインスタントよろしく、それより自分の時間の方がもったいないなどと言っている女性方よ。
 よろしい、この地上の、もっとも、愉快な、またもっともみのりのゆたかな、飲食(おんじき)のことは、ことごとく、男性が引き受けてしまうことにしよう。
 そうして、女性は、日ごとに娼婦化し、日ごとに労働者化してしまうがよろしいだろう。 (p. 12)
このように力強く宣言してしまうと、むしろさっぱりしてきます。こうした感覚も好きです。 最後に、とてもかんたんなレシピをひとつだけ。
 コップ1杯の米を大鍋に入れる。つづいてコップ15杯の水を入れる。さらにコップ1杯の極上のゴマ油を入れる。塩をほんの一つまみ。さてこの大鍋の中身を、トロトロトロトロ2時間ばかり煮るだけだ。洗う手間も何も要らない。でき上がったカユがまずかったら、心平さんが落第したせいだと思いなさい。 (p. 19)

2015年5月19日火曜日

「検定絶対不合格教科書 古文」

23:55 Posted by どぼん , No comments

05/12 : 田中貴子「検定絶対不合格教科書 古文」

 指導要領に端を発する既存の教科書の在り方に異議を唱えるべく書かれたのが、この検定「不合格」教科書です。
 作品そのものの面白さを歪める検定に疑義を呈し、(創られた)伝統や自国の文化として提示される読み方ではなく、自分の生活や文化を踏まえた自分なりの読み方が大切なのであり、またそれが古文の魅力なのだといいます。まず著者は、教科書にある「お説教臭さ」に疑問を投げかけます。
 なるべくいろいろな場や人々に、古典文学にはまだあなた方の知らないテクストがたくさんあって、それは決して教科書的な枠にはまった「お勉強」として読まなくてもよいのですよ、と声を大にして言ってきたのに、ほとんどの人が初めて古典文学に出会う場となる教科書がものすごく陳腐なのである。 (p. 285)
 その陳腐さは、教科書という公的テクストがもつ権力から生じるといいます。古文に関わらず、(本書の言い回しを借りると)「作者のいいたいことを発見せよ」という至上命令と、教育的配慮のなされた「お説教臭い答え」に対して強い抵抗感を覚える人は少なくないでしょう。まして古文の場合には、入試科目として文法や語彙という壁があります。「お説教臭い答え」、絶えず求められる文法や語彙の知識。「古文嫌い」を生み出す要因は、作品を読み込む以前の段階にあるといえるのではないでしょうか。

 著者は「お説教臭い答え」の原因として、大元の学習指導要領を時系列順にたどってゆきます(3部4章)。採録する作品について「教師の好みに片寄って、狭い学習にならないように (昭和31年)」とされていたものが、やがて「古典としての価値」と「親しみやすさ(昭和45年)」を重視するものへと変わってゆきます。そして国際化のすう勢のなかで、「国語を尊重」や「日本人としての自覚(平成元年)」といった民族的な考え方が現れます。(本書の言い回しを借りると)公的テクストは、時代の文化的・政治的な状況で変化する、というわけです。この点、ぼくは「古典としての価値」という言葉が気になりました。それはむしろ、作品自体の価値(絶対的な価値などというものがあるとすれば、ですが)というよりも、道徳を教えるために有名な作品が作り替えられているような印象を受けるのです。著者もまた「教育臭」という言葉でそれを表しています。

 こうした「お説教」の実例が取り上げられているのが第一部です。一例を挙げると、『宇治拾遺物語(児のそら寝)』は「僧と子どもとの素朴な話 (p. 26)」であり、『伊勢物語(芥川)』は純潔な「悲恋物語」になる。兼好法師は『徒然草』まじめな教訓を記したものであり、『平家物語』の木曾義仲は「愛」と「主従愛」の物語に”なる”。どれも普遍的なメッセージをもった道徳的な物語になっているのです。ところがこうした物語の背後には、性愛(同性愛や密通など)や恥の観念、ユーモアというような、「お説教臭い答え」とはまったく別の文脈が存在することも珍しくありません。

 第一部で別の文脈を提示された驚きは、第二部でさらに大きなものになります。一例を挙げると、仰臥状態にある失意や激情をユーモアたっぷりに描いた正岡子規の『仰臥漫録』、戦国時代末期に城内で戦う女性の話を口語体で記した『おあむ物語』。そしてぼくが一番驚いたのが、女性の初体験を生々しく描いた『とはずがたり(巻一)』と、さりげなく鋭く描いた『源氏物語(葵巻)』でした。『とはずがたり』では「薄き衣はいたく綻びてけるにや」とまで書いているのです。そこには人間の生き方や考え方、善悪両面をもち、葛藤する存在が描かれています。それは、単に歴史や文化(風俗)という点から関心を持つのとは違った読み方、ほんとうの意味で「作者のいいたいことを発見」するという文学の楽しみがあるのではないでしょうか。

 疑問点としては、作品と生徒がじかにぶつかるような読み方を教育の現場で適用するのはかなり難しいのではないか、などということがいくつかあるのですが、既存の文脈から解放してくれるという点でおもしろく読むことができました。

2015年5月16日土曜日

「やはり俺の青春ラブコメは間違っている 続」 第6話

18:34 Posted by どぼん , No comments
久しぶりにアニメをみました。
「やはり俺の青春ラブコメは間違っている 続」の玉縄さんがとても面白かったので、勝手な意訳と私感を含めながら記録しておきます。原作未読、理解力に乏しい人間の勝手な意訳と私感なのであしからず。

議題:イベントのコンセプトと内容面でのアイデア出し

(6話での)会議1回目
若いマインド〔精神〕でのイノベーション〔革新〕を起こしてゆくべきだと思う」
→ 高校生として求められている若さを武器に、これまでとは異なるまったく新しいイベントにしようという意志表明。
「そうなると当然、おれたちとコミュニティとのウィンウィン〔双方にとって望ましい〕な関係を前提条件として考えなきゃいけないよね」
→ 「そうなると」と言っていますが、すでに話がかみ合っていない印象。
「戦略的思考で、コストパフォーマンス〔費用対効果〕を考える必要があるね」
→ コミュニティといかに連携するかという話になるのかと思いきや、費用面での懸念を示しています。
玉縄「みんな、もっと大切なことがあるんじゃないか」
→ よくぞ言ってくださった。
玉縄「ロジカルシンキング〔論理的思考〕で論理的〔ロジカル〕に考えるべきだよ」
お客様目線カスタマーサイド〔お客様目線〕に立つっていうかさ、」
→ と思ったら、玉縄さんがいきなり崩壊する。長丁場のブレストで疲れていたのかもしれない。
「なら、アウトソーシング〔外部委託〕も視野に入れて」
→ 「なら」とあるから前文をうけている。論理的に顧客目線で考えてみると、外部委託も視野に入れないといけないらしい。
「いまのメソッド〔方法〕だとスキーム〔計画〕的に厳しいけど、どうする?」
→ プランではなくスキーム(枠組み)。ぼくは勝手につっこみました。「そもそもきみらにスキームなんてあるのか」、と。
「いったんリスケ〔スケジュールを再調整、後方へずらす〕する可能性もある。もっとバッファ〔余裕〕をとってもいいんじゃないかな」
→ 前倒しというよりも、後方へずらすイメージで使われる気がします。使ったことありませんが。何も決まっていないのに、どうやってスケジュールを立て直すのだろう。
「そうだね、全体をよくみたい」
→ コンセプトも決まっていないのに、どの全体を見るつもりなのか。

いわゆる「意識高い系」への揶揄と考えることもできるのですが、他人の意見を否定しない、対立を生まないという姿勢を揶揄しているようにも思えます。ブレインストーミングのためとはいえ、それぞれがかみ合わない話をしているから対立が生じることもない。たびたび集団内で敵としての役割を引き受けてきた(?)主人公とはとても相容れない考え方を、このようにやや滑稽に描いたのではないかと思いました。

2015年5月2日土曜日

Musescoreでよくつかう機能

10:52 Posted by どぼん , , , 7 comments

Musescoreでよくつかう機能

Musescoreでよくつかうのに忘れてしまいがちな機能をメモしています。自分用のメモなのでかなりざっくりしています……(もっとよい方法をご存じで「教えてやってもよい」という奇特な方がいらっしゃったら、コメントなどでご教示頂けたら幸いです。

「オッシア(あるパートの同じ小節に対する別の譜面)の挿入――イメージキャプチャを使用する方法」(Ver.2.0.2)


 オッシアが一か所程度であれば、この方法が使えるかもしれません。

  1. 別の小節を用意し、オッシアとなる譜面を入力する
  2. イメージキャプチャを起動し、1で入力した譜面を範囲選択する(選択状態のまま)
  3. 2で指定した範囲をShift+Ctrlを押しながら、オッシアを入力したい元の譜面にドラッグ・アンド・ドロップする(下画像は拙作から恥ずかしい譜例)
    20150911a

「和音からなる前打音を打ち込む」(Ver.2.0)

1.通常どおり、一つの音を前打音として入力する
2.Shift+[音名]でもう一つの音を配置し、Ctrl+[↑/↓]でオクターブを調節
3.臨時記号がつく場合はさらに[↑/↓]で調節


「トリルに臨時記号をつける」(Ver.2.0)

1.通常どおり、音符に対してトリルをつける(トリルの入力は、音符を選択し、パレットの”アーティキュレーションと装飾”や”線”のところからトリルを選んでダブルクリック)
2.パレットから必要な臨時記号をダブルクリックすると、上部に臨時記号が加わる
(上部と下部につける方法、また、ターンの場合はどうしたらよいのでしょうか!)

2015年5月1日金曜日

「話がこじれたときの会話術」

14:54 Posted by どぼん , No comments

04/21 : J. ウィンズレイド, G. モンク「話がこじれたときの会話術」

 ナラティヴの実践原理として、対立の物語には常に複数の物語があるという想定を持って取り組むとよい。当然、双方の(または2グループ以上の)当事者たちは常に、起こったことについて異なる物語を持っている。彼らの説明には、異なる事実が抽出され、異なる箇所で強調されてアレンジされ、順序も変えられた出来事が語られる (p. 30)
 人は時として、ともに争いを望んでいないにもかかわらず対立関係に陥ってしまうことがあります。そこには、彼らがある問題についてそれぞれ思い描いている対立の「物語(ナラティヴ)」があり、その背後にはその物語を構築する文化的な圧力があります。 ナラティヴ・メディエーションは、対立する彼らの調停者として、対立の背後にある文化的な圧力に注目し、対立の物語とはべつの物語を構築します。それによって、相手への理解や共感、敬意を再確認し、対立の原因となっている問題を解決するための足掛かりを用意するのです。

ナラティヴ・メディエーション

 ある問題をめぐって人びとが対立するとき、当事者たちは原因という事実を探し、その対立を認識しようとします。しかしナラティヴ・メディエーションでは違う見方をします。人びとは、さまざまな事実を取り出し、強調し、一貫した物語をつくることで、物事を説明しているとみるのです。たとえば、尊大な専門家が正直者の素人を騙すという陳腐なプロット、Aは尊大な専門家で、Bは正直者の被害者などというような人物描写――こうした枠組みに当てはめて物語をつくることで、一貫した物語として現実を理解しようとします。 そして、この「物語」をつくりだす要因として、文化的な要因に注目しています。

 たとえば本書の1章では、医療ミスをめぐって対立する被害者と医療従事者の例が挙げられています。病院はしばしば安全性や信頼性の高さを強調し、みずから文化的な物語をつくり出します。その結果、人びとが認識している以上に(日常的に)医療ミスが起こっているという実態を覆い隠してしまいます。この文化的な圧力が、被害者や家族のみならず医療従事者に影響を与え、双方に苦悩を与えています。そこで調停者は、彼らがもつ別々の物語から、相互理解に至るための資源を引きだそうとします。

 そのための技法が、「二重傾聴」「対立の影響の外在化とマッピング」「協調の物語の構築」「相互理解の生成」です。「二重傾聴」によって当事者が物語に従って焦点を当てている文脈とは異なる文脈に傾聴し、対立関係(当事者から見た相手)と問題を切り離す「外在化」、外在化された”問題の原因”ではなく、”問題が当事者にもたらす影響”を共有する「マッピング」、対立の物語とは異なる「協調の物語の構築」といった手法によって、調停者は当事者間の「相互理解の生成」を実現しようとします。つまり、ナラティヴ・メディエーションとは、調停者として問題を客観的にとらえて判断を下すのではなく、むしろ当事者の「現実」を作り上げている要素を材料にして、新しい「現実」を作り上げる試みだといえるのかもしれません。
話がこじれたときの会話術: ナラティヴ・メディエーションのふだん使い

2015年4月1日水曜日

打ち込み日記 - ショパン 「夜想曲」 嬰ハ短調 作品27-1

ショパンの「2つの夜想曲 (Op. 27)」から第1番嬰ハ短調を打ち込みました。

幅の広い左手の空虚な左手のうえで歌う二重唱、焦燥しているかのような中間部分、苦悩から解放されるようなコーダ。悲痛でありながら、全体的にはとてもはっきりした構成で全体像をとらえやすい曲だと思います。

極力弱く、コンサートホール向けではなく自分のために弾いているような演奏を、いくらかでも再現したいと思って作りました(打ち込みの意欲は、いつも不満足から生まれます)。とはいえ、中間部はベロシティで100程度、かなり強いのですが。

例によってちょっと音量が小さいようです(^^;)

「犯罪者の自伝を読む」

7:47 Posted by どぼん , , No comments

03/26 : 小倉孝誠「犯罪者の自伝を読む」

 普通に人生を過ごしていたならば、みずからの生涯を書き綴るという自伝行為とは無縁であったはずの彼らは、社会の法と秩序に背いた結果として、言葉に遭遇した。監獄という孤立と、監視と、沈黙の空間に置かれた時、(中略)はじめて、彼らは自己を語る機会をあたえられ、自己を語る快楽と困難を知ったのである。 (p. 177)

内容

 犯罪者という”本来反省すべき人たち”が自身の罪や人生を語るとはどういうことなのか。彼らは自伝を書くことによって社会へ弁明を行い、あるいは自己と対話を重ねてゆきます。

 社会と自己に対して訴えかける「自伝」の分析をつうじて、彼らがおかれた社会的な環境、犯罪者として生きざるを得なかった背景、またそれに対する(政府や人民といった)社会の犯罪への認識を読み取ることのできるおもしろい本です。

自伝を書いた犯罪者

 本書で大きく取り上げられているのは4人で、いずれも殺人を犯した人々です。

ピエール・リヴィエール (1815-40)
 1835年6月3日、フランス北西部ノルマンディー地方の町カーンにて、父を迫害し苦しめていた母と、それに加担していた妹と弟を鉈で殺害した。愛する父を救うという神の正義の遂行、自伝の言葉を借りれば「神がその摂理を証明するため」の犯行だったが、自伝のなかで悔悛の情を示す。7月2日逮捕、翌1836年2月に死刑から無期刑へ減刑、1840年10月に刑務所内で首をつり自殺。

ピエール=フランソワ・ラスネール (1803-36)
 1835年(7月王政期)、セーヌ県重罪裁判所に出廷。窃盗、手形偽造、殺人など30項目に及ぶ容疑で逮捕され世間の注目を浴びた。リヨン市に店を構える商人の子で、少年期から孤独で読書を好み才能と知性に恵まれていたが、家庭や社会での不遇から「社会の災厄(『回想録』)」となることを決意した。1836年1月9日に処刑。

マリー・ラファルジュ (1816-1852)
 1840年1月、フランス中部リムーザン地方の村ル・グランディエを仕事で滞在していた夫(14日死亡)をねずみ駆除用のヒ素で殺害したとされる(冤罪の疑いあり)。貴族の地位を得た父と富裕な土地所有者の家系を継ぐ母のもとに生まれ教養豊かな女性だったことから、冷徹傲慢な妻が、勤勉な夫を殺害したという構図のまま裁判は進行していった。有罪確定後に無実を訴えるために『回想録』を記す。1840年9月19日終身刑宣告、1852年6月1日健康状態の悪化にともないナポレオン三世の恩赦により釈放、同年9月死去。

アンリ・ヴィダル
 1901年1月、南仏エズの駅にて、痴情と金銭関係のもつれから結婚の約束をした女性ジェルトリュード・Hをナイフで殺害した。直後に、ほか3人の女性を殺害したことが露見。数週間で230ページにわたる自伝を記し、「盗み目的の犯行」とする俗説へ反駁、愛されるべき母と義父からの冷遇に端を発する自己消滅への欲求が根底にあったことを吐露している。

ルイ・アルチュセール (1818-90)
 1980年11月16日早朝、自宅の寝室で妻エレーヌを扼殺。名声ある哲学者だったため世間の注目を浴びた。「心神喪失」ないし「夢幻譫妄」として予審免訴。責任無能力となったがゆえに司法の場での釈明は許されなかった。1982年ソワジーの精神病院から退院、1985年に自伝を記す。

永山則夫 (1949-97)
 横須賀米軍基地から拳銃を盗み、1968年10月から11月にかけて全国各地で4人を殺害。正体の暴露を恐れての犯行だった。劣悪な環境に育ち十分な教育を受けていなかったが、獄中で著作活動をおこなって印税を遺族に送るなど、獄中で悔悛を示す。1990年最高裁の「永山判決」により死刑確定、1997年8月1日執行。

自伝を表す動機

 この本では、自伝を表す大きな動機を4点挙げています。大多数の自伝作家は(1) 自己認識(書くことで自己を再認識する)のためですが、(2) 快楽(自己を語ることの欲求や楽しみ)、(3) 自己弁明(自身の行為の正当化や不当な言説への反駁)、(4) 社会的・倫理的効用(自身の生涯、経験が役立つ)。

 本書に登場する犯罪者自身にとっては、自己弁明の動機は極めて強いと考えられます。父を阻害する母親へのただならぬ憎しみ、家庭での不遇に端を発する排除的な社会に対する復讐、自己消滅に対する欲求、あるいは自身は潔白であるという弁明、それらを社会に伝えたいという欲求があります。例えば、”社会の災厄”となることを決意し、殺人などの犯行に及んだラスネールは、『回想録』に このようなことを書いています。
 私は殺人を説き勧めようというのではなく、あなたがたが自分のために自然のなかで築きあげた残酷な秩序に抗議するためにやって来たのだ。そしてその抗議状を、他人の血で書き記したのである。抗議状にサインし、封印するときには、自分の血を流すことになるだろうと知っていたから。私は恐怖の宗教を金持ち連中に説き聞かせるためにやって来たのだが、それというのも、愛の宗教は彼らの心にいかなる影響力も及ぼしえないからである。 (本書, p. 70. Lacenaire, 1991, p. 117)
 犯罪者自身が自己弁明、また自己認識のために自伝を書く他方で、犯罪を解明する立場からも、犯罪者自身に自伝を書かせることが勧められます。つまり、人を犯行へと動かす要因を解明するために自伝を書くことを薦めたようです。

2015年3月14日土曜日

「パイの歴史物語」

0:04 Posted by どぼん , 2 comments

03/12 : ジャネット・クラークソン「パイの歴史物語」

 クリスマスのミンスパイや感謝祭のパンプキン・パイは、栄養に富むおいしい食べものから強力なシンボルへと進化して生きのびた。しかしごくふつうの、毎日過程で手作りされていたパイは、時代の変化の波に飲まれ、淘汰されつつある。現代のように、人びとが時間に追われ、高カロリー食品が敬遠される世界で、パイに未来はあるのだろうか? (p. 161)
 パイとはなんでしょうか。だれもが「そんなの分かるよ」と言ってしまうような問いも、1927年のタイムズで白熱をみせたパイとタルトの違いをめぐる論争によって読者はパイの迷宮に引きずり込まれます。パイといえば、あの網目状の蓋が思い出されます。しかし蓋がない「プディング・パイ」なんて言うものもあったりして、いよいよパイの本質は分からなくなります。

 そこで歴史的にパイをみてみると、容器として使われていたという驚くべきことが分かります。それはグラタン皿のような耐熱容器であり、お弁当箱のような収納容器であり、いまでいう真空パックのような密閉容器だったのです。ウィリアム・サーモン (1695) の『家庭の辞書、あるいは家政の友 (Family-Dictionary, or, Household Companion)』いわく、イノシシのパイは「じめじめした場所に置かなければ、まる1年もつ」とか。パイはその優れた保存性のために、遠く離れた地で学ぶ息子や戦場にいる夫に送られるようになります。具体例として、1638年、ヘリフォードからオクスフォード大学の息子にパイを送る母の話が紹介されています。GoogleMapで測ってみたところ、105.62Km. クール便もないのに、常温のまま数日がかりで息子にパイを送るというのはかなり不安ですが、きちんと密閉されていたようです。

 当初は食べものというよりは容器として主に用いられていたパイが、やがておなじみの美味しい生地が作られるようになってから食べものとなり、密閉され保存性に優れたそれはイギリスの各地を飛び回り、イギリスでは携帯しながら食事をとれる合理性が好まれ800人の軍隊が行軍中の7分半のあいだにパイで食事を済ませていたとか。他方では豪華な装飾を伴ったり、中に意外性のあるもの(生きた小鳥・カエルなど)を仕込んだりと、イベントに定番の食べものとなってゆきます。ハトの足が出た「ピジョンパイ」のイラストがありますが、こんなので食欲が出たのでしょうか……。

 さらにパイは、17世紀から18世紀にかけてアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどにも広まってゆきます。しかしアメリカでパイといえば甘いものであり、オーストラリアではミートパイ、ニュージーランドではマトンパイ、各地でさまざまな意味づけがなされていったようです。

 小説、たとえばディケンズなどは、パイを「目くらまし」として多く描いたようです。家庭でも在り合わせのものでつくれる料理だったそれは、言い換えれば「ごちゃ混ぜでなにが入っているか分かったものではない」ということです。「子牛の肉のパイはいいもんだ。それを作った婦人が知り合いで、そいつが子猫の肉ではないとわかっているなら」 あるいは復讐法として、シェイクスピアは敵の子供の肉でつくったパイを、敵に悟らせずに食べさせるという場面を描いていたとか。「何が入っているか分からない」というのは、楽しみでもあり、恐ろしいことでもあったのだと思います。

 パイのわくわく感を感じながらパイを食べてみたい、と思わせてくれる本でした。

2015年3月7日土曜日

打ち込み日記 - ショパン 「12の練習曲第1番」 変イ長調(エオリアンハープ) 作品25-1

ショパンの「12の練習曲 (Op. 25)」から「エオリアンハープ」の通称で知られる変イ長調の第1番を打ち込みました。

和音のなかから高音部の旋律が浮かび上がります。優しい旋律を活かすためには、それを包むハーモニーはそれ以上に優しくなければいけません。その点ですべての指を思い通りに動かすことが求められる、難しい曲なのではないかと思っています。

ぼくのとくに好きな部分は、(0:52)の不安げな風が(0:56)で一転して晴れ間に変わるような部分、そこから想いがあふれるような(1:01)の部分、旋律が消え入ってからアルペジオで昇華される終盤も好きです。

ただ、例によってちょっと音量が小さいようです(^^;)

2015年3月3日火曜日

「鴎外の子供たち」「鴎外の三男坊」「森家の人びと」

23:37 Posted by どぼん , , , 2 comments

「鴎外の子供たち」

森鴎外の三男、森類さんに関する本を何冊か読んでみました。

一冊目は森類さんご自身による『鴎外の子供たち』。
まっ黒に焼いた木柵が広大な林を二分して、中央にある一間はばの道路が林の頂に達している。足もとの砂が急に深くなった。「キャー」と叫んで杏奴と二人その道を駆けのぼると、夷隅川(いすみがわ)をはさんだ中州のかなたに、波の音からの想像とはちがう静かな白い波が広い広い砂浜に寄せていた (p. 64)
この本は、父親としての森鴎外像が描かれている点では姉の茉莉さんや杏奴さんと共通していながらも、父が偉大だったことによる重圧を軽やかに描き出してしまう筆致がとても魅力的です。少し他人事のようなその視線は姉たちの「パッパ(鴎外)」への過剰ともいえる愛情にも向けられていて、やはり茉莉さんや杏奴さんによるパッパの回想とはずいぶん違います。母に叱られて「ウウウー」と泣いたときもかばってくれた父、書斎に駆け込めば膝の上に乗せてくれた父、夜中に手を握ってトイレに連れて行ってくれた父、とにかく父への愛を描きながらも、父が激怒した姿や人混みに負けてしまうほど弱ってしまった姿も見つめていて、描き出してしまう。
押し出されて三四間走って振りむくと、強い強いはずの父が、人びとに押しつぶされて、改札の柵に下腹をあて、ステッキを高くかかげて、苦痛に曲った顔をしていた。僕は神さまが災難を受けているような悲痛な心持になって、腸をしぼるように、大声で泣いた (p. 62)
姉たちにとっては父や自分自身の描かれたくない姿も描かれてしまうということで、この本の刊行もかなり大変な経緯があったようです。

「鴎外の三男坊」

二冊目は森類さんの生涯に迫った『鴎外の三男坊』。『鴎外の子供たち』に重なる時代を茉莉さんなどの視点からも描きつつ、『子供たち』よりも後の晩年の姿まで書いています。『子供たち』では飄々としてしているように感じられた部分も、この本を読むと違った印象を抱かざるを得ません。 たとえば、杏奴さんとの海外渡航中の記録は『子供たち』にはあまりないのですが、この本では類さんの喜びや興奮(そして細かな筆致!)がどれほどであったかがよく分かります。母志げが「見たことがないよ」と言った顔、歓喜に満ち溢れた影の無い顔。類さんへの重圧がどれほどのものだったかということが、他人(茉莉さん)の視点からより鮮明に感じられます。
さらに『子供たち』に比べると、出版社の社員として、本屋の店主として、また小説家として自作原稿の指導を仰ぐなど、積極的に奔走して力強く現実と対峙しようとする姿が描き出されていると思います。この本の年表によると、『子供たち』は1956(昭和31)年45歳のときに書かれていて、これは千朶書房(せんだ)を閉店する一年前です。ですが、「市街八分(まちはちぶ)」や「裁量権」のような小説(例に挙げたのはどちらも社会的な題材の作品ですが)が掲載されるのはそのあとですし、もっとも充実していたのもこの後だったのではないかと思っています(人生に”もっとも”充実していた時期というのがあるとすれば、ですが)。人様の手紙を載せるのもなんですが、自分の娘についてこんなに美しい表現って思いつくでしょうか。
(略)東武電車の駅まで佐代を送つて、地下鉄に乗りました。佐代は勤め帰りの群集で真つ黒になつた、真つ直ぐなエスカレーターに乗つて、元気に笑ひながら手を振つて、登つて行きました。あんな綺麗な、無邪気なゑがほをする大人ってゐるでせうか。お父さんには、黄色い無地の外套を着た神様が笑つてゐるやうに見えました。 (p. 183)
ぼくにとっては、茉莉さんの本への読書案内の役割も果たしてくれた本です。

「森家の人びと」

三冊目はご自身による作品集『森家の人びと』。上の『鴎外の三男坊』でも引用されているエッセイと小説がすべて採録されています(コラム、新聞記事は除く)。作品全体を”乱暴に”区分すると、第一に、誰かとの思い出を描いたもの。幼少からの親や兄・姉との思い出を描いたものは「不肖の子」「父の笑顔」「森家の兄弟」「鴎外の子供たち」「誠之とその周辺」などに加え、「観潮楼跡」「観潮楼の離れ」「観潮楼」「賓和閣」「硝子の水槽の中の茉莉」などがあります。さらに絵の師でもあり恩人でもあった斎藤茂吉や佐藤春夫との思い出を回想する「防空壕」「万喧嘩引受処」「亜藤夫人」「狐の家来」。
第二に、結婚してからの家庭生活に基づいたものがあります。「散歩」「新春快走」「和光」「鼠心(そしん)」「驟雨」「市街八分(まちはちぶ)」「百舌鳥」「酔眼」「細き川の流れ」など。あと、ちょっと違う気がしますが「シロヤシオ」。
第三に、社会的な題材のもの。正確に言えば、日常生活のなかでも問題意識が見られるもの。「はんてんぼく(立ち退きってなんだかなぁ、という個人的問題意識から)」「ビート・ルヰの困惑」「裁量権」など。

読んでみてぼくが好きだったのは、「心だけは若いんだ」という意気込みを感じさせる「新春快走」、思春期の息子とのちょっとしたいさかいを描いた「和光」、森鴎外を題材にした番組をつくろうというテレビ局の非道を描いた「ビート・ルヰの困惑」、最晩年の茉莉さんと類さんの仲を描いた「硝子の水槽の中の茉莉」、以下「鼠心」「驟雨」「市街八分」「細き川の流れ」といろいろあるのですが、鴎外の三男という立場が与える重圧をより重苦しく描いた「或る男」や、晩年の姉に対して良悪を超えた実直なまなざしで優しく描き出す「硝子の水槽の中の茉莉」、長年連れ添った妻の病気を案じながら妻のいない自分という存在の非力さを描いた「細き川の流れ」が印象に残りました。
やはり直接これらの物語を読んでみると、『鴎外の三男坊』で受けた能動的な印象は少し過剰に受け取りすぎている気がしました。やはりどこかに無気力さ、そしてそれに対する自責の念、不安感がとても色濃く出ているように思えます。

2015年2月21日土曜日

「ふるさと隅田川」「一九八四年」

11:30 Posted by どぼん , , 2 comments

02/20 : 幸田文「ふるさと隅田川」

 いヽ土地に住む人たちより、そこに住む女たちはずつと明らかに、それぞれの性格なり力なりを発揮してゐた。私には、女房たちは亭主たちを飾つてゐるといつた観があつた。それに較べると、いヽ土地の奥様がたは亭主に飾られてゐる感じだつた。 (「湿地」, p. 130)
 隅田川をはじめ、自然とともに暮らす人びとの姿を映し出している随筆集です。土地(自然)の美しさや雄大さへの憧れ、隅田川とともに生きる人びとへの優しいまなざしが感じられます。一瞬しか味わえないという桜の葉の香り、川のそばで暮らす人びとの力強さ、川の暴力、晩年の父露伴の姿、変わりゆく街。繊細で優しいかと思えば、クジラ漁の風景や岩場の崩壊の様子が大胆に描かれていて、なんとも面白いです。季節感や香りを想像させてくれます。

 印象に残ったお話
「流れる」花を見ながら、まぶたの裏には故郷が浮かぶ。
「廃園」ある名家の庭にあった松。みんなが「**様のもの」と思っていたが、同時にみんなでそれを楽しんでいた、という在り方が面白いと思った。けれどその家は没落、廃園に松だけが残っていたが、新しくやってきた商家はすべてを作り変えてしまった。
「みずばち」”おまえに水がこしらえられるか”。
「あだな」船頭芳の喜びや別離の悲しみ、そして老い、人生をよくこれだけ描いたなと思う。近所のおじさん的な桶屋の新さんがまたいい。父のあだ名のことを話され成長した芳の息子の気持ちが手に取るように伝わる。
「湿地」”いい土地”ではない湿地に暮らす人びとの力強さ。
「鯨とり」クジラ漁の大胆さ。そして殺すことへの感覚、それは職業や商売を超えた感情なのだと思う。
「濡れた男」繁殖行為を終えぼろぼろになったサケに出会った男が、それを看取る場面が印象に残った。不思議な縁。
「地しばりの思い出」発展を急いだ結果自然を失い、いままた自然を取り戻そうと急いでいるという見方が面白い。自然への愛着と畏怖。

02/20 : ジョージ・オーウェル「一九八四年」

 われわれが人生をすべてのレベルでコントロールしているのだよ、ウィンストン。君は人間性と呼ばれるような何かが存在し、それがわれわれのやることに憤慨して、われわれに敵対するだろうと思っている。だがわれわれが人間性を作っているのだ。
 国家の統合と支配が進んだ、未来の「1984年」。世界はオセアニア、ユーラシア、イースタンの3つの超大国に分かれ、物語はオセアニアの旧イギリスを舞台に展開します。オセアニアを統括する「党」の支配は人びとの精神にまで及び、党に不都合なことを「考えること」が犯罪となる世界です。支配者たる「党」の構成員は自らの「意志」で党を愛し、全人口の過半を占めるそれ以外の人びとは漫然と現状を受け入れている。そんないびつな支配体系に強い反感を持った主人公は、あるともないとも語られている反政府組織に加わろうとしますが……。

 党はさまざまな統制を行ないます。メディア操作をつうじた歴史の検閲・改変、新たな言語による(党に不都合な)概念の削除(例: free という語は「その畑は雑草から自由である/雑草を免れている」といった言い方においてのみ可能で、政治的・知的な自由はもはや概念として存在しない, 480)、そのなかで人間性というものは権力によって徹底的に破壊され、権力が新たな人間性を作ってゆく。そんな社会体制を打破すべく主人公がわずかな希望を抱いたのは、下層階級のプロールでした。人口の8割を占め、しかも党に洗脳されていない彼らが放棄すれば、たちまち党は崩壊すると考えます。

 しかし主人公は同時に、自らが党の支配から逃れ得ないこと、思考まで党に監視された「死んでしまった人間」であることを自覚していました。さらに、人間の精神などというものが飢餓や苦難のなかでいかにたやすく醜く変貌するかということも知っていました。憎悪や不信に満ちた社会の到来を予感させ、物語は幕を閉じます。

2015年2月5日木曜日

打ち込み日記 - ショパン ポロネーズ変イ長調 作品53 "英雄" (3)

英雄ポロネーズ (0) の試作版から、間違いを修正した最初の公開版(2の公開にともない音楽データは削除)、表現を改めた英雄ポロネーズ (2) に続いて3回目の公開です。

変更点はいろいろありますが、一番の変更点は主部で3拍目を強調したことです。リズム感がずいぶん変わった気がします。

IMSLPにあった自筆譜をみてみると、最後の繰り返し (6:18-) の部分では ff から f を消して f になっていました。より大きな力を込めるのは、コーダにとっておいた方がよいような気がしています。

そのほかにも、序奏 (0:00-) では16分音符をスタッカートからレガート気味にして左手のE-flat (Es) を強調、主部 (0:32-) などのルバート、(1:58-) からのペダリング、いろいろ変更してみました。

こういう説明をすると、自分のやっていることが無機質な分析かなにかのように見えてしまいそうですが、要はぐっと来るか来ないか、かなりなんとなくでつくっています。


ただ、じっさい気になる点もけっこう山積していて、主部の左手にはスタッカートがついていますが、ここで区切った方がよかったかなぁ、とか……序奏から主部につながる左手のGがうまく融けないなぁ、とか……。

ド素人の模索の日々はまだまだ終わりそうにありません。

2015年2月3日火曜日

「東大教師が新入生にすすめる本」

17:33 Posted by どぼん No comments

01/31 : 文藝春秋「東大教師が新入生にすすめる本」

東京大学出版会の月刊広報誌 "UP" の同名のコーナーから、1994年から2003年分を採録したという本です。そのコンセプトは書名のとおり、難関をくぐりぬけ入学を果たしたばかりの気鋭の新入生たちに、研究者でありかつては学生でもあった教員が本を紹介するというものです。◆紹介するにあたって、コンセプトは3点。すなわち、(1) 印象に残っている本、(2) 研究者の立場からすすめる本、(3) 東大出版会の本、です。

紹介されている本は諸分野の学術書はもちろんのこと、ビジネス書などの一般書、小説や詩などさまざまですが、どれも知的な刺激を与えてくれるであろう本です。たとえば「仮面の解釈学」などは、タイトルを聞いただけで読み応えがありそうだなと見当がつきます。

学生にとっては、関心を深めるための案内として役立ちそうです(もちろん、自分で本を選んでゆくことも大切なのでしょうけれど)。たとえば「この本は1年生には早いから、4年生になってから読めばいい」というような紹介の仕方ができるのは、その分野に精通した選者ならではでしょう。

それ以外の人にとっても、あまり縁のない学術的な内容に踏み込んだ本や有名ではない本の魅力を雄弁に語ってくれる本書から、新たな本(それも、骨のある本!)との出会いが生まれそうです。

2015年2月1日日曜日

「不運な女」

23:29 Posted by どぼん , No comments

01/31 : リチャード・ブローティガン「不運な女」

 さてと、わたしはいまこの本を書きおえようとしていることに気づく。これは根本的にはわたしが知っていることすべてについての本だ。それは見るにしのびないほどあからさまである。作家どもは悪名高い嘘つきだが、もしわたしを信用してもらえるなら、ここで断っておきたい。読みかえしてみて判明したのは、書くことを中断したわたしの居所と、あとは、ついつい横道にそれて、数多くの短い逸脱と苦々しいほどみっともない長い逸脱を繰り返したことだけだった。 (p. 141)
◆なんとも不思議な物語です。紹介文には「47歳の孤独な男が、死んだ女友だちの不運に寄り添いながら旅をする」とありますが、あまり不運に寄り添っているという感じはしませんし、それどころか肝心の「不運」についれは旅の各地で思い出したようにすこし述べているだけで、物語自体はだんだん話の本筋から外れて行きます。
◆そのことについては、語り手自身が物語の最後にこのように問いかけています。「なぜわたしはついにやってこなかった雷雨のことを書くのに時間を費やしたのか? その時間を使って、首吊り自殺をした女性についてもっと憐れみ深く思いやりをもって、掘り下げて考えることだってできたはずなのに (p. 144)」。語り手は「不運な女」たちについて描こうと努力をしたものの、その結果は「尻切れトンボの断片、きどったユーモア、くだらない術策」の集まった「いまいましいノート」の完成ということで終わってしまう。なんというはかなさ。

◆このことと関連して、印象に残ったのは以下の部分です。
 わたしがたったいましたように、あるときここを通りかかり、車からおりて死者のあいだを歩きまわって、かれらについて考え、かれらは何者だったのか、どんな人生を送ったのだろうかと思いを巡らしたって、なにもわかりやしない (p. 52)
◆語り手は旅の一環で日本人墓地を訪れますが、墓石は積み上げられ、姓名も生没年も分からないありさまでした。語り手は、「葬られる場所としては、陳腐で平々凡々としているその場所で、忘れられた墓石たちは……そして、それに対する語り手の追想はすべてのことの在りよう」とおなじだと述べています。陳腐で平凡なところに忘れられた墓石があって、それについて語り手が追想すること。決して成功することのないその追想に、著者はすべてのことの在りようをみているのだと思います。

「100語でわかるガストロノミ」

21:59 Posted by どぼん , 4 comments

01/01 : アラン・ボウエー、ローラン・プランティエ「100語でわかるガストロノミ」

 人は、毎日食べなければならない。そして、料理をすることは、その食べる時間を素朴な幸せの瞬間にすることである。私は、料理を熱烈に愛する。食材を吟味し、調理し、決して、仰々しくならず、的確で気取りのない方法で素材の持ち味を引き出すことがたまらなく好きである。(中略)シェフの気難しさや創造性を超えて、料理にかける情熱が、絶えることなく受け継がれ、手を加えられ、崇高なものにされたと解釈している。料理とは、実に人間的で、本質的で自然なものである (p. 166)
◆フランス料理界の重鎮100人がそれぞれ料理にまつわる言葉をテーマにして書いたエッセイ集です。シェフたちが一つの本を作り上げるというコンセプトに惹かれ、読んでみました。かれらが料理に挑む心意気や食材に払う敬意、かれらの料理にまつわる思い出の数々をとおして、シェフという人たちが少しだけ身近になったように思えます。かれらの幼少期のお話がまた魅力的で、幼少期にきのこと接して育ったとか、ロースト肉のソースをつまみ食いする喜びとか、読んでいるだけで共感できる子ども心がそのまま描かれています。
◆それと関連して、すこしポエムみたいな項目があるのもよいですね(笑)。さらに、ちょっとしたレシピもあったりして、なかなか読みごたえのある本だと思います。フランス料理ということで、ふだんあまりなじみのない言葉(たとえばガルグイユとか、知りませんでした)もテーマに挙げられていますが、どんなものか想像するのも楽しいものです。
◆ちなみに、ガストロノミとはもともと「胃の作法」の意、食事に関する美意識のようなものを幅広くさす言葉のようです。

2015年1月19日月曜日

「作曲の発想術」「まちモジ」「日本人はいつから働きすぎになったのか」

10:45 Posted by どぼん , , , , 4 comments

01/17 : 青島広志「作曲家の発想術」

 肺病で貧血を起こしている女主人公の、それをものともせずに歌うこと! 感極まるとベッドの上に立ち上がって『歓喜の歌』風の二重唱を歌うのだ。また、恋人の男も女も、彼女が歌うのを止めようともしないのである。それに比べれば、幕開きのパーティーのシーンで、それまで会ったこともない二人がぴったり合わせて歌う不思議さなど、物の数ではなかった (p. 180)
 さまざまな名曲はどのようにして生まれたのか。音楽はどのようにしてつくるのか。ごく簡単な分析や時代背景といった名曲案内から、作曲家の実際(とくに経済的に)までのぞくことのできる面白い本です。著者独特の言い回しが何とも面白い本です(引用のとおりです、笑)。◆第一章は著者自身が作曲家に至るまでの悲喜劇、第二章は管弦楽や吹奏楽、ピアノや合唱といったさまざまなジャンルにおける有名な作品の紹介とごく簡単な分析、第三章は「結婚式に曲を作ってくれ」と頼まれた場合を想定して、(その気になれば)だれにでもできるような作曲方法を教えています。
 とくにおもしろかったのは、著者自身の生い立ちを描いた第一章です。音楽を教える人間に対するメッセージや音楽への考え、そして体験談が語られていてとても生き生きとしています。著者が幼少時代に頑張って書いた五線紙に、父親が醤油をこぼし、母親が天ぷらを載せてしまったとか、「石澤先生が、青島先生のところに行っていると下手になるからやめろって」などと言いだすホラ吹き娘に「うちの子に終楽章を弾かせたのは辞めろということでしょう」などと難癖をつける母とか。笑っちゃいました。
 そのほか、大切なアドバイスが要所要所に垣間見られます。初心者に教える場合は最高に丁寧に誘導すべきである(1章)、管弦楽への編曲は芯となる弦楽がきちんと出来ていればなんとかなる(3章)、などなど。

01/19 : 小林章「まちモジ」

 丸ゴシックが選ばれてきた理由は、遠目でも読めること、オフィシャルにみえること、そして手で書くときに効率が良いこと、の3つがバランスよくそろっていたからではないでしょうか (p. 55)
 見た目にもたのしい、世界中の街角でみられる文字のフォントについて教えてくれる本です。たとえば「とまれ (STOP)」の標識ひとつとっても国によってデザインが異なっています。
 とりわけ日本では、「とまれ」といった道路標識をはじめ、いたるところで丸ゴシック体が用いられています。たとえば、鉄道やバス停の駅名や車体の方向幕、銀行の看板などなど。中国などの漢字圏とくらべても、あきらかに角の丸い文字(丸ゴシック体など)が多いようです。
 なぜ日本では丸ゴシック体が用いられてきたのか。それは、描きやすさと見た目を両立した職人技に由来するものだったようです。他方で、なぜ他国(とくに漢字圏)では日本ほど丸い字体が用いられることはなかったのか、という疑問が残りました。はじめから手書きではなく、印刷(?)などの生産方式が確立されていたのでしょうか。
 ともあれ、額縁に収められることもなく、人によってつくられ、人に使われ摩耗してゆくデザイン。デジタルフォントを製作する著者がそんな「まちモジ」に愛着を示す気持ちが少しだけ分かった気がしました。

01/23 : 礫川全次「日本人はいつから働きすぎになったのか」

 ウェーバーのいう「資本主義の精神」を支えていたのは、カルヴィニズムという非合理的な「宗教」であった。同様に、江戸期における日本人の「勤勉性」を支えていたのも、浄土真宗という「非合理的な宗教」であった。明治期においては、日本人の勤勉性を支えるものは、ある面においては「修身」というイデオロギー教育であり、また他の面においては、「生存競争」という現実であった。それらを支えていたのは、いずれも「非合理的」なものであった (p. 241)
 日本人の「勤勉」という価値観の源流をたどり、その帰結として人びとが「自発的に」「勤勉であること」を強いられている(自発的隷従)現代に至る過程を論じている本です。そこには、思想、為政、企業、さまざまな立場から勤勉であることが価値観として求められ、そのなかでつねに変容してゆく人びとの様子が描かれています。その結論は引用部分のとおり、宗教や思想、為政のためのイデオロギーや生活の必要性といった「非合理的」なものが「勤勉」を成立させていたというものです。
 よくよく考えてみれば、日本人は勤勉だと一般的には言われてきましたが、その価値観がどのように成立したかということを考えることはあまりありません。まして、「働きすぎ」によって死に至るということを思想の歴史から考えるという視点もぼくは持っていませんでした。その点で、この本の投げかけているテーマは面白いと思いました。(ウェーバーを持ち出している部分で、すこし疑問点もあるのですが、これはぼくの勉強不足というかなんというか……)  この本は14の仮説から出来ており、それを見るだけでこの本の全貌が大体つかめるという、便利なつくりになっています。なので、ここに仮説を残して要約をサボることにします。

仮説

  • 仮説0. 人々を勤勉に駆り立てるものは、その社会、あるいはその時代のエートスである, 29.
  • 仮説1. 日本では、江戸の中ごろに、農民の一部が勤勉化するという傾向が生じた, 27.
  • 仮説2. 江戸期の日本では、すでに勤労のエートスを導くような文化が成立していた, 35.
  • 仮説3. 江戸時代の中末期、浄土真宗の門徒の間には、すでに勤労のエートスが形成されていた, 91.
  • 仮説4. 日本人の勤勉性の形成にあたっては、武士における倫理規範が影響を及ぼしていた可能性がある, 105.
  • 仮説5. 明治20年代以降、少なからぬ日本人が、二宮尊徳の勤勉思想から、勤勉のエートスを学び、勤勉化していった, 137.
  • 仮説6. 浄土真宗門徒における勤労のエートスは、日本の近代化に積極的な役割を果した, 142.
  • 仮説7. 明治30年代に入ると、日本の農民の多くが勤勉化した, 149.
  • 仮説8. 大正時代の農村には、すでに、働きすぎる農民があらわれていた, 164.
  • 仮説9. 大正時代の農村には、なお、勤勉でない農民が残存していた, 164.
  • 仮説10. 戦時下、産業戦士と呼ばれていた労働者が置かれていた状況は、今日の労働者が置かれている状況と通ずるものがある, 191.
  • 仮説11. 日本人の勤勉性は、敗戦によって少しも失われなかった, 203.
  • 仮説12. 高度成長期に、日本人労働者は働きすぎるようになり、その傾向は、今日まで変化していない, 217.
  • 仮説13. 近年の過労死・過労死自殺問題には、日本人の勤勉性をめぐるすべての難問が集約されている, 225.
  • 仮説14. 日本人は、みずからの勤勉性を支えるものが何であるかについて、深く考えようとしない, 243. 

2015年1月16日金曜日

英単語メモ - 「そして、僕はOEDを読んだ」から

19:32 Posted by どぼん , 8 comments

01/15 : アモン・シェイ「そして、僕はOEDを読んだ」

◆英単語にも、いろいろな言い回しやニュアンスがあって面白いです。読んでいて気になった言葉を集めてみました。言語を学ぶならふつうに参考書でも買えばよいのですが、こういうひねくれた入り口から入るのが好きです。(そのなかでもちょっと気になったものには*)

A

*Accismus
欲しいものについての本心からではない拒絶、辞退
Acnestis
動物の肩から腰にかけての部分で、かこうと思っても手が届かないところ
Advesperate
ほんの少し陽が傾き始める
Aerumnous
トラブルだらけの
Agathokakological
善と悪からなる
*Agelastic
決して笑わない人
Agerasia
若々しい人、歳をとった感じがしない人
All-Overish
全身がなんとなく気だるい
Antinomian
道徳律がキリスト教徒の前ではなんの効力もないと主張する人
*Antipelargy
子どもから親への、お返しの愛
Anti-rumour
噂を流し返す
*Apricity
冬の太陽の暖かさ
*Astorgy
自然にわいてくる愛情の欠如


B

Backfriend
うその友人、隠れた敵
→ Fawnguest
盗みを働くために友人のふりをしている人
→ Hindermate
助けるというより邪魔をする仲間
Balaamite
お金のために宗教心を持つ人
*Bayard
無知に対して自負心を持っている人。もともと「鹿毛の馬」を指していた
Bedinner
夕食をごちそうする
Bed-swerver
不貞な配偶者
Benedicence
会話のなかに表れる博愛心
*Benignant
自分より劣るものに対して温かい感情を持っている、表している
*Bouffage
楽しくおいしい食事
*Bowelless
腸がない、慈悲や同情の心に欠ける。(腸=同情というのが興味深い)


C

Cacotechny
悪い技巧、害を与える技巧、技術
*Cellarhood
地下室が地下室である状態
→ Tableity
テーブルがテーブルである状態
→ Paneity
パンがパンである状態
*Cimicine
虫のにおいがする
*Coenaculous
夕飯を食べている、「夕食をたまらなく楽しんでいる」
Conspue
軽蔑や侮辱をして誰かに、何かに唾を吐く
→ *Consputator
他人を軽蔑して唾を吐きかける人
*Countercozen
お返しに騙す
Credenda
信じる者、信条(agenda”すべきこと”の対をなす)
Curtain-lecture
ベッドにおける妻による夫への小言


D

Debag
罰として、もしくは冗談でズボンを引きずりおろす
*Deipnophobia
晩餐会の恐怖
Desiderium
以前所有していて現在所有していないものをもう一度所有したいと強く思う気持ち
Dilapidator
建物を放っておいてだめにしてしまう人 (現在のニューヨークでは、単にlandlord”大家さん”と呼ばれている)
*Dyspathy
同情(sympathy)の正反対


E

-ee
→ Laughee
笑われている人
Elucubration
ろうそくの明かりで勉強をすること、書き物をすること (生産的活動)
Empleomania
公的役職につきたいと思う躁病的衝動
*Engouement
理屈のない愛好


F

Fard
顔の傷を隠すために化粧をする
Father-better
ほかのお父さんよりよい
Father-waur
ほかのお父さんより悪い
Fedity
ひどく悪い習慣、嫌悪を感じる習慣
*Felicificability
幸せにする力
→ felicific
幸福をもたらす
Filiism
自分自身の息子に対する過度のひいき目
Finifugal
何かが終わることを避けている
Fleshment
初めての成功からもたらされる幸福の感覚
Foiblesse
(人の)はっきりしとした弱点、何かへの弱さ(foible に対してfoiblesseには、弱みを容認する、肯定する態度がある)
Fomes
接触伝染性のウイルスを吸収、保持できるありとあらゆる多孔性の物質
Fornale
お金を稼ぐ前に使ってしまう
Frauendienst
女性に対して誇張された騎士道 (13世紀にウルリヒ・フォン・リヒテンシュタインという人が書いた本のタイトル。その本には、彼が仕える貴婦人をいかに守り、戦ったのかについて詳細な記述がなされている。(例えば、数百もの敵の兵士を倒し、どれほど大きなけがを負ったのかについて))


G

Gobemouche
どんなにばかげたことであっても、なんでもすぐに信じる人。語源はそれぞれフランス語で、gober (~を飲み込む), mouche (ハエ)
Granaybgere
豪華な、贅沢な食事 (OEDに謎の注釈あり。”「あなたは本当に一人ですべての異教徒を退治できるとお思いですか?」という意味を持つ、もとのフランス語からの借用ではない”, 103)
Grinagog
絶えずにたっと笑っている人 (”この単語は、おそらく、「顔をポコンとパンチしてもかまわないやつ」とも定義できるだろう”, 104)
Gymnologize
インドの哲学者のように裸で議論する


H

Hamartia
悲劇の英雄を敗北に至らしめた欠点 (”くれぐれもこの単語をチョコレートの誘惑に負けそうなときなどに使ってはいけない”, 110)
*Happify
幸せにする
Heterophemize
意図したこととは異なることを言う
Hooverize
特に食料に関してけちけちする。1917-1919まで食糧庁長官だった第31代アメリカ合衆国大統領ハーバート・フーバーに由来する。(”哀れハーバート・フーバー”, 114)
Hot cockles
一人がうつむいて目隠しをしてひざまずき、ほかの人がその背中を順番に叩いていって、誰が叩いたのかをあてるという素朴なゲーム


I

Ignotism
武知によって引き起こされた過ち
*Ill-willy
憎悪の気持ちを大切に育んでいる (”でも、そもそも、-willyで終わる単語をとてつもなく重く深刻な単語として理解するのは、はなはだ難しい", 121)
Impluvious
「雨に濡れた」
Inadvertist
全く周りの状況が目に入らない人
*Indesinence
ふさわしい終焉の欠如
Indread
目に見えない恐怖を感じる
*Interdespise
相手と同じくらい憎む


J

Jentacular
朝食の、朝食に関係する
Jocoserious
半分真剣で半分ふざけた


K

*Kakistocracy
最悪の市民による政治
Keck
いまにも吐き出しそうな音を出す
Killcrop
空腹がおさまらないがき、俗に、実の子と替えられた妖精と考えられたがき (”この単語は、自分のところ以外のすべての子どもを言い表していると考える向きもある”, 143)


L

Lant
ビールを強くするために尿を加える
*Lectory
読書のための場所
*Letabund
喜びでいっぱいの
*Levament
自分の妻から感じる安らぎ
Lipoxeny
寄生者が宿主を見限って離れること


M

Maritality
夫に対する妻の過剰な、度を越えた愛情
Mataeotechny
無益な、利便性のない科学、技能
*Mawworm
高潔さを自認する偽善者
Microphily
知性や地位において対等でない者同士の友情
*Micturient
ものすごく尿意をもよおしている
→ Cecaturient
便意をもよおしている
*Minionette
小さくて魅力的な
Misandry
男嫌い
→ Misogyny
女嫌い
Misdelight
よくないことに喜びを感じること
Mislove
憎む、罪深いほどの愛情を持つ
Monodynamic
才能を一つしか備えていない
Mothersome
母親のように心配する、心を痛める
→ bothersome
わずらわしい
Mumpsimus
特に言葉遣いについて、断固、懐古主義の立場をとること
Mysophobia
汚れや不潔な状態に対する理屈を超えた恐れ
Mythistory
歴史の神話的説明、報告


N

Need-sweat
不安や心配から出る汗
Nemesism
内に向けられたフラストレーション
Noceur
ずぼらで不道徳な人、夜遅くまで起きている人
Nod-crafty
大学者のようにうなずく傾向にある


O

Obligrate
(おそらく)ごちそうを楽しんで時を過ごす
Occasionet
ちょっとした出来事
*Omnisciturient
全知を望んでいる
Onomatomania
適切な言葉が見つからなくていらいらしている状態
Opsigamy
人生の終盤で結婚すること
Oxyphonia
度を越えた声のかん高さ


P

Palaeolatry
古いものに対する過度の畏怖の念
*Pandiculation
疲れたときや朝起きたときに、「あーっ」と手足を伸ばす行為
Parabore
退屈に対する防御
Paracme
人生の全盛期が過ぎ去った時
Pejorist
世界が悪いほうへ向かっていると考える人
Peristeronic
鳩を連想させる
Pertolerate
最後までしっかり耐え抜く
Pessimum
予想される最低最悪の状況
*Perichor
雨が長く降らず、乾燥していたところに雨が降り、その時に地面からあがってくる心地よい匂い
Philodox
持論にほれ込んでいる人
Postreme
最後の男 (どん尻、びり、つまり「敗者」の固い言い方)
*Postvide
ことが起こったあとにその計画を立てる
*Preantepenult
最後でもなく、最後の一つ前でもなく、最後の一つ前の一つ前でもなく、その次の
*Prend
修繕されたひび割れ
*Propassion
情熱の予兆となる心のざわめき
*Psithurism
風で落ち葉がかさかさと音を立てること


Q

Quag
(柔らかいもの、ふにゃふにゃしたものが)揺れ動く
Quisquilious
生ごみやがらくたに近い
*Quomodocunquize
あらゆる手段を使ってお金を稼ぐ


R

*Rapin
手におえない芸術科の学生
*Remancy
お返しの愛、愛し返すこと
Redeless
緊急時に何をしたらよいのかわからない
Rejoy
所有者としてものを楽しむ
Remord
(名)ちょっとした後悔の念 (動)後悔の念とともに記憶に残る
Repertitious
偶然見つかった、ひょんなことから見つかった
Resentient
気分の変化を引き起こすもの (くちゃくちゃとモノを食べる男性だったり、見ているほうが恥ずかしくなるような笑い方をする女性などを指すことができる)
Residentarian
食卓にある残りが与えられる人 (”食べ始めたときは、テーブルとおなかが14, 5センチ離れている。そのあいだが埋まって、テーブルとお腹がくっついた時に、ごちそうさまをするのさ”, ダイヤモンド・ジム・ブレーディー, 223)
Resipiscence
より良い精神状態、意見に戻ること。食前酒誕生の理由
Roorback
政治目的で流布される特報。バロン・フォン・ルーバックに由来
*Rough music
鍋や釜などをドンチャン叩いたりするなど、大きな音を立てて隣人を困らせること
Ruffing
拍手喝采の代わりに足を踏み鳴らすこと


S

Safety-firster
危険を冒そうとしない人 (安全第一、良心といった意味だったが、臆病者を意味するように)
*Sardonian
殺意を抱き、相手をおだてて喜ばせる人
Scrupulant
良心的に罪を告白しすぎる人
Semese
半分食した (「今晩、残り物(leftover)があるわよ」と「今晩、食べ残し(semese)があるわよ」。後者のほうが、圧倒的に食欲をなくす, 236)
Sesquihoral
一時間半続いている (an hour and half とわざわざ言いたくない気分のときにどうぞ, 237)
Shot-clog
全員に一杯おごってくれるので我慢して付き合う嫌な友人
Sialoquent
話しているときに唾をたくさん飛ばす人
*Sientiary
「黙れ」と命令することを職とする役人
Somnificator
他人の眠りを誘発する人
*Superarrougate
とてつもなく傲慢にふるまう


T

Tacenda
口に出して言う必要のないこと、黙ってやり過ごすこと
Tricoteuse
編み物をする女性、特に、フランス革命の際にギロチン処刑に参列し、たくさんの首が転がっている中でも座って編み物をする女性


U

Ultra-crepidarian
自分の範囲、限界を超えて助言したり批判したりする人、無知な、でしゃばりな批評家
*Umbriphilous
陰が大好きな
*Unasinous
ばかさ加減において相手と等しい
*Unbepisssed
尿がかけられていない、尿で塗れていない
Undisonant
波の音がする
Unlove
愛することをやめる


V

Valentine
(鳥について)交尾期に歌であいさつをする (”鳥が口を大きく開けて異性をひきつけるために謳ったら、それは「自然の驚異」というカテゴリーに入る。人間の男性が同じことをしたら、「接近禁止命令の根拠」というカテゴリーに入る”, 262-263)
Vanitarianism
虚栄、虚飾の追求
Videnda
見る価値のあるもの、見るべきもの
Vitativeness
生きる喜び、生きることへの愛


W

*Wailer
プロの会葬者、お金をもらって涙を流す人
Well-lost
まっとうな理由をもってしても負けた
Well-woulder
条件付きで他人の幸せを祈る人


X

Xanthodontous
ウサギやリス(げっ歯類)などのように歯が黄色い
Xenium
来客に差し上げる品
Xenogenesis
両親に似ていない子ども
Xerostomia
唾液の生成不足による口の渇き


Y

Yepsen
カップのように丸めた両手に入る量、カップ状にした両手そのもの
Yesterneve
昨晩
Yestermorn
昨日の朝
Hesternal
昨日の、昨日と関係のある
→ Nudiustertian
一昨日の、一昨日と関係のある
→ Overmorrow
明後日の、明後日と関係のある


Z

Zabernism
軍隊における権力の誤った使用、いじめや権利の侵害
Zugzwang
(チェスで)駒を動かす必要があるのだけれど、動かすと不利になるような状況