本読み、音楽、アニメ、ゲームなど……じぶんのためのメモ的なものを、気まぐれに載せています。

2015年9月24日木曜日

日本の最も美しい図書館

23:27 Posted by どぼん 2 comments

 個性あふれる41の図書館。そのどれもがデザインや機能という点で固有の美しさを持っています。未来的な建物や歴史な趣のある建物、あるいは図書館の在り方そのものを問い直すようなまったく新しい図書館。こんな図書館を無料で使ってよいのかと思うほどです(苦笑)

 以下、採録されている図書館を紹介するとともに、気になった図書館についてメモしておきます。

■関東甲信越エリア

■近畿エリア

■東海・北陸エリア

■東北エリア

■中国・九州エリア

2015年9月19日土曜日

「ピアノ・ノート」

0:22 Posted by どぼん , , No comments

チャールズ・ローゼン「ピアノ・ノート」

 世界的なピアニストが、ピアノという楽器と演奏という行為について自論を語る。いわば、ピアニストの奥義を垣間見ることのできるエッセイだと思います。ピアノを弾くとはどういうことなのか。ピアニストはあまりに弾かれすぎた定番のレパートリーにどう向かい合うのか。歴史的な「正しさ」についてどのように考えるべきなのか。音楽教育やコンクールといった権威にも踏み込む姿勢はひたすら音楽に対する誠実さを感じさせ、まったく気取りのない文体は、クラシック音楽になじみのない人にこそおすすめしたくなる面白さがあります。以下話題に即してメモ(個別記述的なもの)を記します。(内容に関心のある方は、本書をじかに読んだ方が間違いなく面白いです。言うまでもありませんが)

身体と心、演奏慣習(伝統的奏法)

 音楽を演奏するという行為は、身体的な動作と内面的(精神的、知的)な活動からなります。それでは、この身体と心は演奏という行為にどのように影響しているのでしょうか。この問いに対して筆者は、身体と心を区別する考え方を否定します。ここでいう身体と心を区別する考え方とは、「音楽の本来の姿は頭のなかにある想念であり、演奏という動作はそれを体現するものでしかない」という考え方のことです。この考え方に対して筆者は、身体の役割を強調します。「ピアノでは身体的な努力と表現が密接に関係し、それが作曲と演奏の両方に影響する (p. 20)」。ピアノの作品には、「弾く」ことによって生じる身体性を要求している作品がある(ショパンのマズルカ Op. 63-3、片手で弾くカノンなど)。

 ここで、身体(弾くという動作)と演奏慣習(伝統的奏法)の問題がでてきます。自分にとって耳慣れた演奏や「正しい」と教えられた解釈は、慣習として身体に刻み込まれ「思考や霊感の機械的な代用品」として機能します。つまり、心のように見せかけてまったく違うものだということです。そして驚くべきことに、この演奏慣習に基づく無批判な演奏が、コンサートにも見られると書いています。これは後述する音楽の歴史的な「正しさ」の話と密接に関わっています。

 思考や計画性をともなわない演奏は――これが現代のコンサートの偽らぬ現実だが――伝統的視点や演奏者自身の本能に批判的な演奏とくらべて一般に自発性に乏しく、習慣のとりこになりやすい。伝統に屈してしまう音楽家は、伝統を生かし続ける可能性を捨てたに等しい。 (p. 18)

 メモ:オーセンシティ(歴史的に正しい)運動。作曲家が聴いたであろう真正な音こそが絶対だと考えるあまり、伝統的な西洋音楽がもつ寛容さ(即興的な側面)を忘れ去ってしまった。

音を聴くこと、演奏時のジェスチャー

 筆者によれば、「ピアニストほど自分の出す音を知らない音楽家はいない」。なぜなら音にすべき情趣の多くが身体的努力や身振りとなって表れてしまうからです。レコーダーなどの機械に頼るのではなく、自らの感覚で音の響きを感じとることが大切だと述べています。それは、作品のなかに自己を失う、主観でありながら客観的な状態になるという極めて難しい要求です。

 このことは聴き手に対しても問題を投げかけます。音に情趣がなくてもジェスチャーによって視覚的に伝わることがあるからです。こうなると、音楽を聴くという行為にも疑いを向けなければなりません。ここで驚くべきことが書かれています。「人の耳に聴こえてくるのは、大半が期待している音である (p. 129)」。「有名なピアニストの凡庸な演奏も、無名なピアニストの素晴らしい演奏も、同党のよろこびを与える (p. 130)」。「プロの音楽家や玄人筋は、たとえひどい演奏でも聴衆には美しく聞こえ、喜びを与えることもあるのを忘れがちだ (p. 123)」。ぼく自身が抱いていた、演奏を品評するような聴き手に対する疑念をこれぞと指摘している一文です。

「正しさ」の圧力

 解釈の「正しさ」とはなにか、そして教育やコンクールにおける正しさという圧力とはなにかという疑問は重要なテーマです。本書のなかでも「身体と心」「音楽学校とコンクール」などさまざまな章で触れられています。

 たとえば「音楽学校とコンクール」の章では、学位試験やコンクールで求められる「正しい」解釈(楽界が認める解釈)が、音楽に対する自発的な批判を阻害していると述べています(コンクールに対する批判はこの本の全体を通して一貫しており、別の章では「だからコンクールの演奏はあれほど行儀がよくて、眠くなるほど退屈なのだ (p. 114)」とまで書いている)。この意見は当然、コンクールを支持している人と相容れるはずがありません。このことがよく表れているエピソードも記録しておきます。筆者が審査員を務めたときのお話です。

 あるとき音楽学校校長をしている審査員が怒りだした。自分の考えというよりはだれかの解釈のコピーとしか思えないつまらない演奏をするピアニストに、わたしが5点をつけたからである。この審査員はこんな低い点はありえないと思ったらしい。そこで私は答えた。「もしこれが学位のための試験なら、わたしは78点をつける。だが職業を賭けた場では、こういう演奏はコンサートホールから追放されるべきだとわたしは考える。これは偽者コピー商品を売る行為に等しい」。 (pp. 103-104)

 演奏者として、筆者は「自発性の乏しい」演奏を厳しく非難します。そしてピアノ教師は「正しさ」を押し付けたい欲求をこらえて、生徒の解釈を引き出すように教える必要があるといいます。そうしなければ(技術とは別の)芸術的な成長を妨げてしまうのです。「コンサート」の章では、教育や楽界という権威に加えて商業からのプレッシャーが加わるだけです。

 そして、「正しさ」がどこから来るのかという問いにもっとも関連があるのが、最後の「演奏スタイルと音楽様式」の章だと思います。まず伝統的な、慣習的に用いられてきた奏法を紹介したうえで批判を加え、そうした奏法を安易に演奏に適用してしまうことで「聴き手に自分が深い感動と感受性をもって弾いていると思い込ませるための(あらゆるところにかまわずバターをぬりたくるような)安っぽい手段に堕してしまうことがある (p. 178)」と忠告しています。

まとめ(感想)

 書けば書くほどこの本のお堅い部分に触れてしまって、軽やかでありながらも誠実な筆致(そして翻訳)がもたらす面白さを損ねてしまう気がしてきたのでこのあたりでとどめておきます。音楽を弾くことと聴くことについて書かれているこの本は、シンプルな問いかけから始まりながらも音楽のとても深い部分を議論していると思います。ぼく自身、クラシック音楽に対するお堅いイメージが一気に変わった本です。

2015年9月17日木曜日

移転(というよりはただのアドレス変更)

23:07 Posted by どぼん No comments
ブログのタイトルとアドレスを変えました。

Minionette(ミニョネット)は小さい、繊細、魅力的なといった意味の言葉らしいですが、ぼくのハンドルネーム(どぼん)と同様に語感だけで選びました。

以前のブログのタイトルは語感があまりよくなかったので、4年目に突入するのを節目にして変更したという次第です。

内容はこれまでとさほど変わらないと思いますが、引き続きよろしくお願い致します。


アドレス変更にともなう旧ブログからの転送について

いざアドレスを変えてみると、旧ブログはエラーページ(ページが見つからない)となってしまうことに気がつきました。「新しいブログへ自動で転送する」なんていう気の利いた機能はないようです。

そこでグーグルのヘルプを見てみると、旧ブログと同じアドレスになるように新しいブログをつくって対処するということでした。


参考「新しいブログのアドレスを元のブログに投稿する - Blogger ヘルプ」
https://support.google.com/blogger/answer/42211?hl=ja

2015年9月11日金曜日

Musescore - オッシアの挿入

23:08 Posted by どぼん , , , No comments

見かけだけでもオッシアらしくしたかったので、無理やりやってみました。

「オッシアの挿入――イメージキャプチャを使用する方法」(Ver.2.0.2)

 オッシアが一か所程度であれば、この方法が使えるかもしれません。

  1. 別の小節を用意し、オッシアとなる譜面を入力する
  2. イメージキャプチャを起動し、1で入力した譜面を範囲選択する(選択状態のまま)
  3. 2で指定した範囲をShift+Ctrlを押しながら、オッシアを入力したい元の譜面にドラッグ・アンド・ドロップする(下画像は拙作から恥ずかしい譜例)20150911a

「オッシアの挿入――オッシア用の譜表を用意する方法」(Ver.2.0.2)

 オッシアが随所に現れる場合や、数小節にまたがる場合に使えるかもしれません。

  1. オッシア以外の譜面を完成させる…………オッシアを一度に入力するために譜面を完成させておく(1)
  2. オッシア用のパートを用意する…………[編集]>[楽器](ショートカットキー:I)を開き、[譜表の追加]から譜表を追加
  3. オッシアをすべて入力する…………新たにつくった譜表にオッシアとなる譜面をすべて入力する
  4. 小譜表にし、段の縦線を非表示にする…………オッシアパートの適当な小節を選択して右クリック。[譜表のプロパティ]を開く。[小譜表]と[段の縦線を隠す]にチェックを入れる
  5. 空の段を非表示にする…………上部のツールバーから[スタイル(S)]>[一般]を選択。[スコア]の[空の譜表を隠す]にチェックを入れる。反対に[最初の段では空の譜表を非表示にしない]のチェックは外す(2)
  6. 小節線をつなげる…………上部のツールバーから[表示(V)]>[インスペクタ]](ショートカットキー:F8)を開き、Ctrlキーを押しながらオッシアパートの各小節線をまとめて選択する。[インスペクタ]の[譜表数]の数値を変更する(この操作で小節線が貫通します(3)
  7. 不要な小節を削除する…………不要な小節を非表示にしたい場合は、その小節を右クリックし、[小節のプロパティ]から[表示]のチェックマークを外す(一小節ずつ行うことになります)(下画像はIMSLPにあるショパンの作品59-3の自筆譜から入力してみたもの)20150911b

(1) この方法では段(=列)が空の譜表を非表示にしてしまうため、新たな小節を作りながらオッシアもつくるというのはかなり面倒になります。
(2) この操作によって段ごと空の譜表は完全に非表示になります。もし、段(=列)ごと空の譜表がほかにあって削除したくないという場合は、その譜表を選択して[譜表のプロパティ]から[非表示にしない]にチェックを入れます。
(3) 小節線を直接下部へドラッグアンドドロップする方法もありますが、まとめて指定したい場合はこちらのほうが便利です。また、インスペクタの[スタイル]を変更することで、小節線を点線や破線にすることもできます。

2015年9月3日木曜日

「最暗黒の東京」

23:05 Posted by どぼん , No comments

08/31 : 松原岩五郎「最暗黒の東京」

 筆者は最下層の人びとに混ざって一年以上生活を送り、その様子を描いています。最暗黒の世界に暮らす人びとは何を考え、どのように生きているのか。暗黒界に暮らす人びとの劣悪な生活環境、彼らの創意工夫、生活を懸けて客を奪い合う車夫、ひいてはそうした貧民たちをとりまく社会の姿が見えてきます。片方では富んだ人間が居り、片方では飢えに苦しむ人がいる。社会とはいったい何なのか。こうした問題意識はいまでも多くの人が共感できるものだと思います。また、車夫の食事として深川飯などが紹介されているのも興味深いです。(あまり暗黒暗黒いうのもよろしくないのでしょうが、語感がよいのでそのままにしました。以下、暗黒メモしてみます)

暗黒界の風景

 冒頭の木賃宿(粗末な宿)の話から、描写に驚かされます。宿の部屋は20畳ほどの大きな座敷だけで、そこに5,6人の客が集まっています。宿に入った筆者の隣では、「煮しめたる如き着物」を着た年老いた飴売りの男が、悪臭を放ちながら着物に手を突っ込んで首や背中を掻いています。さらに夜になると労働者たちが帰ってきて、穴の開いた蚊帳のなかで10人以上が押し合うようにして眠る。蚊帳に穴が開いているから虫も入り放題、しらみなどの小さな虫も湧く。朝になってうがいをしようとすれば、ボロボロのたらいとぬるくなった濁り水しかない。
 飲食店もすごいもので、軒は朽ち柱は歪み、換気するための窓もないので厨房から上がる煤煙も湿気もそのままになっている。テーブルもほこりまみれで、壁もぼろぼろ。厨房は厨房で、片隅に置かれた野菜や魚のくずが悪臭を放ち店内に漂っている。下水は詰まり、台所にはすき間から雨水が入ってくる。従業員も汚らしい格好をしている(「味噌桶より這い出したるが如き給仕女」、ぞっとします!)。

暗黒界で暮らす人びと

 貧民の住居に関する話は、読んでいて筆者の思い入れを感じた部分です。まず、訪れた貧民の住居をこのように書いています。
 土竈〔へっつい〕はあたかも癩病患者の頭〔かしら〕の如くに頽〔くず〕れ、釜の縁は古瓦の如くに欠け、膳には框〔ふち〕なく椀は悉く剝〔は〕げたるもの、擂鉢の欠たるもなお火鉢として使われ、土瓶のヒビキたるもなお膏貼〔こうやく〕して間に合わさる。かつ、その日常什器として使用さるる傘はいかなるものなるか、これその骸〔ほね〕に各種の巾〔きれ〕をハギ集めて僅かに開閉さるるものなり。その履物は如何、これ実に木の片〔きれ〕に縄、綴切〔つぎきれ〕、竹の皮等を綯〔よ〕りて僅かに足を繋ぐものなり。しかしてまた、夜具臥床〔ねどこ〕の類は如何、これまた実に彼らが生活の欠陥を表す好材料にして、神秘なる睡眠を取るべき彼〔か〕の布団は風呂敷、あるいは手拭〔てぬぐい〕の古物、または蝙蝠を剝〔は〕ぎたる傘の幌〔きれ〕などを覆うて才〔わず〕かに絮〔わた〕の散乱するを防ぐの丹精物なり。 (p. 26)
 ぼろぼろのかまどを直し、お椀などもぼろぼろのまま使っている。物が無いなかで、傘や履物や布団といった必需品を代用している。そんな生活を「狂言染みた生活だ」と嘲笑する人もいるだろうとしつつ、筆者はさらにこう続けます。
 知らずや彼らの生活はスベテ「欠乏」といえる文字をもって代表され居るものなるを。彼ら既に万事欠乏の裡〔うち〕に生活す、いずくんぞ、その欠乏を満たすための経営なからんや。木片に縄を穿ちて履物となす、これ実に彼の欠乏を充たすの大経営にあらずや。土鍋のヒビカキたるに膏紙〔こうやく〕して物を煮る、これ実に彼の欠乏を満たすための惨憺なる心計にあらずや。世にミカエルアンジロまたは甚五郎左匠等が惨憺の意匠に製作〔でき〕たる彫刻を見て感ぜざるものは美術を知らざるものとなす。しかれども、貧者の事欠〔ことかけ〕道具を見てその意匠を思わず、単に不器用なる狂言道具としてこれを冷笑するは甚だ残忍なるものといわざるを得ず。 (p. 27)
 彼らをあざ笑う人間は、貧民が欠乏のなかで生活しているということを知らない。貧民にとってまず重要なのは「ものを得る」ことではなく「欠乏を防ぐ」ことだということを知らない。世の人は、ミケランジェロや甚五郎が意匠を凝らして作ったものをみて何も感じない人間を「美術を知らない人間だ」というが、貧民の彼らが悩みぬき意匠を凝らしてつくったものを「不器用な狂言道具」だと嘲笑うのは残忍極まるとしか言いようがない――だからこそ、筆者は貧民の住居を見て「これまで見たことのない巧緻なる美術品を見た」と語っているわけですね。(というのは、僕が情熱的に読みすぎているのかもしれませんが)

暗黒商売

 貧窟には残飯屋という商売があるといいます。筆者は残飯という言葉こそが貧民を形容するような言葉だといっています。残飯屋は、大学や兵営から買い取ったたくあんの切れ端、パンの屑、魚のあら、焦げ飯などを売り、貧民は桶やどんぶりを残飯屋に持って行って残飯を買う。呼び方も独自のものがあって、漬け物の切れ端は「株切(かぶきり)」、パンの切れ端は「土竈(へっつい)」、釜底のあざれた飯を洗い流したものは「アライ」、焦げ飯は「虎の皮」といった具合です。調理するとなれば薪なども買わねばなりませんから、調理された残飯は彼らの生活を支える重要な食品です。「我れ先にと笊、岡持を差し出(いだ)し、二銭ください、三銭おくれ、これに一貫目 (p. 38)」といった混雑も、当然のことなのですね。
 筆者はさらに、残飯を受け取って残飯屋へ運ぶという力仕事に従事するのですが、ここでも驚くべき話があります。残飯のない「飢饉」が続くことは、そのまま貧民の生命に関わってきます。そこで筆者は賄い方に頼み込み、「豕(ぶた)の食うべき餡殻と畠を肥すべく適当なる馬齢薯(じゃがたらいも)の屑」を受け取ります。腐敗して酸味を帯びた芋の餡に、洗い流した釜底の飯、絞った味噌汁のかす。「飢饉」に耐えかねた貧民たちは、筆者が残飯を持ち帰ってくるのを心待ちにしている。筆者はこれを売り物にしてよいかと悩んだのではないかと思いますが、事実それは貧民たちの食事となりました。筆者はこの体験についてこのように書いています。
 ああ、いかにこれが話説すべく奇態の事実でありしよ。予は予が心において残飯を売る事のそれが慥(たし)かに人命救助の一つであるべく、予をして小さき慈善家と思わせし 。しかるに、これが時としては腐れたる飯、饐(あざ)れたる味噌、即ち豕の食物および畠の食物をもって銭を取るべく不応為を犯すの余儀なき場合に陥入らしめたり (p. 44)
 ほかにも、いろいろな職業が登場します。とくに「融通」の項目、損料布団を質屋に入れ、そこから罪過を重ねて膨大な借金を抱えてしまった人の話などは印象的です。

暗黒界に巣くう社会問題

 ここまでかいつまんで書いてきたのは暗黒界(スラム街、貧民窟)の話ですが、筆者はその背後にある社会や経済への疑問を呈しています。たとえば、(筆者にいわせれば)残飯はもともと価値のないもの、時には海へ捨てることさえあるものなのに、利益を出すために商人と賄い方が手を組むことによって、貧民がより高値で残飯を買うことになる。商人が介入することで、価値のなかったものに値段がついてしまう。
 既に商人なるもの、その間に入って有無を通ずるに至れば、あたら天物は世に暴殄されざるも、この貧民は常に飢えざるを得ず。ああ恐るべき哉経済の原理、翅なくして飛び、足なくして探り、ついにこの暗黒界にむぐり込み、この残飯たる乞食めしの間を周旋するに到らんとは。 (p. 49)
 貧民街でもっとも多くみかける車夫(車夫は貧民の職業とされていたのでしょうか)についても、車夫たちの様子を生き生きと描き出す一方で、このような問題を投げかけています。
 現今府下に営業人力車の数は六万台にして、その内二万は順番の休息者として控え、余(あと)の四万台は悉皆外出して運動するとの実算なれば、車夫一人の日計二十五銭に内算しても、彼らの労働者が日に一万円の賃銀を得ざる事には尋常に生活する能わざるなり。 (p. 125)
 つまり……4万台が実際に仕事をし営業しているなら、車夫たち全体で1万円という賃金を受け取っていなければ彼らは生活できないであろう。東京という大都会は1万円という賃金を車夫たちに支払うことが出来るのか……という問いです。やせ細りぼろぼろになった老人(60歳ぐらいだと思いますが)を「安いから」といって利用するのは「壮年血気の健脚者」。警察が取り締まれば老人は営業できなくなり生活ができないから、そうした取り締まりをかいくぐりながらひそかに営業を続ける。「世間の事態逆倒(さかさま)なるが如し (p. 124)」とは、この本を貫く大きなテーマではないでしょうか。
 「では車夫を減らせばよいではないか」と考えたくなる一方で、車夫が失業者を吸収していると考えることもできるかもしれません。顧客を奪い合い喧嘩をするような車夫の背後にこういう問題があると考えると、この本で書かれていることは(紹介文に反して)ユーモラスとは感じられない重みがあるように思います(もちろん、「文久的飴売」や「老婆的慣用語」など、面白い書き方をしているところもあるのですが)。